04.Easy Living
バッキーはよく鼻歌をうたう。
本を読んでいるとき、ディナーを作っているとき、シャワーを浴びているとき。楽しそうに歌っているときもあれば、ぼんやりと何処かに思いを馳せているようなときもあった。ほとんどの場合歌詞はあいまいで、あとで原曲を聞いてびっくりすることもある。けれどいずれにせよ、スティーブは彼の歌声がとても好きだった。
バッキーの声には不思議な響きがある。少しハスキーなようでいて、柔らかな甘さもある。快活で男らしい印象に反して、あまり声を張り上げることがなく、いつもどこか囁くように話すせいだろうか。まるで、ブランデーをこっそり溶かし込んだホットミルクのような声だと、スティーブは聴くたびに思うのだった。
「なあ、そういやお前、明日は?」
ふっと歌声が途切れ、バッキーが尋ねる。先ほどまで鼻歌のバック・バンドを務めていた水音も止み、こぽこぽとお湯を沸かすコーヒーメーカーだけがその存在を主張していた。濡れた手をシャツで拭いながら、バッキーがリビングへと現れる。スティーブはソファの真ん中に落ち着けていた尻を僅かに持ち上げ、それをちょっとばかり右にずらした。
「急な呼び出しがなければ、一日フリーだよ」
「じゃあ、買い出しに行こうぜ。洗剤の買い置きがきれててさ」
バッキーはソファの前にレコードプレーヤーへ向かい、いくつかのジャケットを吟味したあと、丁寧な手つきで針を落とした。いかにiTunesが便利かを説かれようと、スティーブはきっといつまでもレコードとレコード・プレーヤーを手放すことはないだろう。独特の柔らかな音質はもちろんのこと、時代を経たジャケットの感触や、前の持ち主が書き込んだらしいささいな落書き、色あせた厚紙のざらついた手触りですら、スティーブにはどれもひどく魅力的に感じられるのだった。
ハスキーな女性ボーカルの歌声が流れだしたところで、ようやくバッキーがソファーの空白を埋めた。入れ替わるようにスティーブが立ち上がり、二人分のコーヒーを手に戻る。ペールブルーのマグがスティーブで、同じデザインのグレーがバッキーのマグだ。やっと二人並んで腰を落ち着け、のんびりと演奏に聴き入る。
「トニーが、聴いてないレコードをくれるって言ってたよ」
「おお、ありがたいな。大方聴きつくしてさ、そろそろ新しいのが欲しかったんだ。でも、いいのか?」
「ほら、彼はデジタル志向だから」
トニーの趣味なので、恐らくはハード・ロックというやつだ。スティーブにはいまいちその魅力が分からないが、バッキーは意外となんでも好んで聴くようだった。その横顔に喜色が浮かんだのを見て、スティーブも自然と嬉しくなる。自分の手柄ではないけれど、バッキーが喜べばスティーブも嬉しい。そういうものなのだ。
「あ、そうだ」
マグに口をつけようとしていたバッキーが、不意に膝を打って腰を浮かせた。
「どうした?」
「お隣に住んでるレディからアップルパイをいただいたんだ。食べるだろ?」
「レディ……っ!」
飲みかけのコーヒーが気管にはいって、スティーブは激しく噎せた。それを見たバッキーがけらけらと笑う。笑いごとじゃない、と言ってやりたかった。
バッキーを疑っているわけではないけれど、スティーブはいつだって気が気じゃないのだ。昔からずっと、スティーブはバッキーを繋ぎ止めておきたくて必死だった。自分が彼にふさわしくないことを知っていたから。人気者のバッキーと違って、自分には彼だけだったから。そう思っているくせに口からはすぐ可愛げのない文句ばかりが出て、それでもバッキーはスティーブの肩を抱き締めてくれる。スティーブはずっと、バッキーの寛大さに甘えてきた。スティーブは皆が言うほど強い男でも、正しい男でもない。
「おいおい、大丈夫か?」
バッキーの手が背中をさすってくれたおかげで、スティーブはようやくまともな呼吸をすることができた。おおげさだなあ、とバッキーが笑う。まつ毛に溜まった涙が落ち、みっともなく頬を濡らした。
「おおげさなもんか! お前、ちゃんと恋人がいるって言ったんだろうな!?」
そう言ってから、なんて惨めで馬鹿馬鹿しいことを言ってしまったのだろうという後悔が怒涛のいきおいで押し寄せる。なにかフォローをしなくてはと焦る気持ちとは裏腹に、言うべき言葉は見つからない。開いたまま固まった唇が僅かにむなしく震えた。
隣で聞いていたバッキーは一瞬おどろいたような顔をして、それから、見たこともないくらい優しい顔をして笑う。そのあとで、ほんのすこし困ったように眉を顰めた。
「お前さあ……。お隣さんの顔くらいちゃんと覚えとけよ」
「えっ?」
呆れ半分からかい半分、そんな感じの声だ。言われてから慌てて記憶を手繰ったけれど、任務に追われる不規則な生活にかこつけ、近所付き合いというものを疎かにしていたことにようやく気付く。
「レディはレディだけど、俺たちと同年代。意味わかるか?」
俺も今日初めて会ったけど、とバッキーが苦笑する。すべてを理解した瞬間、首から上が真っ赤に充血するのをはっきりと自覚した。耳まで熱い。
「……まぎらわしいこと言ってごめんな」
蒸気でも吹き出しそうなくらい熱くなった耳に、バッキーの唇がそっと触れた。そのまま甘ったるい囁きを流し込まれる。俺にはお前だけだよ、俺のスティーブ。と、そんなふうに。スティーブは思わず乙女のように顔を覆った。これがキャプテン・アメリカの正体である。
「いいんだ、君は悪くない。これは全面的に僕の落ち度だ……」
「おっと、急にキャプテン・アメリカが出てきやがった」
ぷすっと噴き出したバッキーが、羞恥にふるえるスティーブの肩を乱暴に抱いた。昔ながらの、スティーブを慰めるにはもっとも適した方法だ。
「よし、アップルパイは明日にしよう。――な?」
予期せぬ言葉に、両手のあいだからバッキーを伺う。大好きなブルーグレーの大きな瞳が、悪戯っぽく光をはじいていた。その奥にある欲の色を、スティーブは今度こそ取違えずに読みった。と、思う。
「……わかった」
