02.I Don’t Want to Set The World on Fire
「懐かしい歌ねえ」
隣の部屋の窓から、絹糸のような白髪頭がのぞいている。
バッキーはレコードプレーヤーの音量を少しだけ上げてから、同じように顔をのぞかせた。目を合わせ、どちらからともなく微笑む。可愛らしい老婦人だった。彼女の顔のすぐ横で揺れるペチュニアと同じ、淡いピンク色をしたカーディガンがよく似合っている。
「若い頃に何度も聴いたわ。ラジオでね」
「ええ、そうだ。毎日のようにかかってましたね。……失礼ですが、おいくつですか?」
バッキーの問いに、皺に埋まった淡い色の瞳がきらきらと光った。瞳の色はブルー。グレーがかったバッキーのそれとも、グリーンの混じったスティーブのそれとも違う、春の空のような明るい色だ。
老婦人はわずかに首を傾げて、それからほんのすこしだけ恥ずかしそうに言った。
「そろそろ一世紀ってところかしら。ふふ」
「そりゃすごい! じゃあ、僕よりほんのすこしだけ年下かな?」
「まあ、お上手なのね」
バッキーが大げさに驚いてみせると、老婦人は弾けるように笑った。嘘は言っていない。けれど、口説き上手な若者のジョークだと思われたようだった。もちろん、本気にされては困るのだが。
「ブルックリンにはずっと?」
「ええ、生まれも育ちも」
「僕も――ああ、少しだけ、ロシアにいたことがありましたけど」
「あら、そうなの? 素敵ね。外国なんて、行ったこともないわ」
「……やっぱり、ブルックリンが一番ですよ。あそこはとっても寒くて」
他愛ない世間話の端々に、血腥い半生の断片をそっと潜ませながら、バッキーは笑った。こうして話してみると、不思議と呆気ないもののような気さえしてくる。けれど、この曲を口ずさんでいた頃のバッキー・バーンズが望んだ人生は、多分そういうものだったはずだ。あの頃はまだ若くて、自分の人生なんてものをまともに考えてみたことは無かった。そのくせ、疑いもなく信じていた。呆気ないほど平凡で、でもささやかな幸せに満ちた輝かしい未来というやつを。
バッキー・バーンズはブルックリン生まれで、ほんの少しだけロシアで暮らし、いまはまた、愛するブルックリンで暮らしている。それだけで済む人生だったなら、と思うこともある。
「……そう、寒いのは嫌よね」
ふと老婦人が顔を曇らせたので、バッキーは一瞬、自分が何か不味いことを言ったのだと思った。
彼女はそんなバッキーの戸惑いに気付き、再び柔らかく笑んだ。違うのよ、ごめんなさいね、と付け加えることも忘れず。生まれた年こそバッキーのほうが早いけれど、人生の密度でいえば間違いなく彼女に分があるだろう。自分の意思で選び、自分の足で歩き、自分の手で切り開いてきた本物の人生が、彼女にはある。改めてそんなことを感じさせる表情だった。
「私の父がね、飛行機乗りだったのだけど。海に沈んでしまって、それきり。寒いところだったって、同僚の方が言ってらしたわ」
「……そうですか」
彼女の父親というと、バッキーやスティーブの父親と同じくらいの年代だろう。バッキーが子供の頃、飛行機といえばまだ夢のような乗り物だった。その頃にはもう、海の向こうで戦闘機が空から街に爆弾を落としていたと思う。けれど子供にとってはただ夢のような、憧れの乗り物だったのだ。
不意に、ハワード・スタークの子供のような笑顔を思い出した。自分の手で、彼を息子から奪った。やりたくはなかった。正気なら、絶対にやらなかった。でも、すべて自分がこの手でやったことだ。
「僕の知り合いにも何人か、パイロットがいますよ。……みんな、最高にいい奴だった」
軽く肩を竦め、ゆるやかに頭を振る。ハワードのことが好きだった。いけすかない金持ち野郎め、と思ったこともあるし、スーパー・ソルジャー計画の話を聞いたときには、研究室に殴りこみ、俺の親友になんてことをしてくれたんだ、と詰ってやりたかった。それでも、どこか憎みきれないところのある男だった。ハワードもまた、祖国と、そこで待つ家族のことを愛していた。富と名声のためではなく、祖国の平和と家族のために戦っていた。彼なりの、彼にしかできないやり方で。そんな男をどうして嫌いになれるだろう。
老婦人は空を見上げ、バッキーもまた空を見上げた。真っ青な空に、雲がうすくたなびいている。こんな日に空を飛べたなら、さぞかし気持ちがいいに違いない。
「……父も同じことを言っていたわ」
続けて、お友達はみんなご健在なの、と聞かれたので、バッキーはあいまいに首を傾げて笑った。
「落ちたやつも、一人います。それも北極海に。そのうえ長いこと海の底で氷漬けになってたのが見つかって」
ほんとうに、嘘みたいな話だ。嘘みたいだが、真実だった。そのあとに生き返り、いまは派手なコスチュームを着て元気に盾を振り回している、という部分を言わなかっただけで。普通の人間は飛行機ごと海に落ちたら死ぬし、氷漬けの状態から生き返ったりもしない。
老婦人は僅かに目を見開いたあと、きらきらしい瞳を皺に埋めて笑った。
「キャプテン・アメリカみたいに?」
「――そう、キャプテン・アメリカみたいに」
もしかしたら、彼女は何もかも知っているのかもしれなかった。それもいいな、と思いながら、バッキーも笑った。
