01.Waterloo Sunset
こぢんまりとしたスティーブ・ロジャースのセーフハウスには、同じくこぢんまりとした出窓がある。
西側に面したこの窓からは都会を横切るに相応しい濁った川が見え、その傍らには、老犬と寄り添い歩く老人の痩せた肩や、人生の大事なひとときを持て余す若者の白い横顔があった。
そのどちらにも属さないバッキー・バーンズは、部屋から出ることもほとんどなく、本とコーヒーを手にその光景を見下ろしている。毎日、毎週、毎月。
この部屋の主はとても忙しく、朝出ていったきり三日も顔を合わせないことだって珍しくない。人より長い生を与えられた彼は、人よりたくさんの使命や責任というようなものを背負って戦っている。バッキーはそんな彼を見送り、また出迎えるためだけに存在していた――今のところ。不満はないが、ほんの少しだけ退屈ではある。
バッキーがあくびをひとつこぼすと、古めかしいレコード・プレーヤーがぷつりと針を飛ばした。針の替え時か、レコードに傷がついているのかもしれない。重い腰を上げ、ぐるぐると空転するプレーヤーを止めた。たった一人の室内に予期せぬ静寂が訪れ、図ったようにムクドリが鳴く。直せるものなら直したかったが面倒が勝って、バッキーは結局ラジオのスイッチを入れた。
現代のポピュラーミュージックは、老人の耳にはどれも必要以上にやかましく、前衛的に聞こえるものだ。はじめの頃こそ面食らったものの、今ではバッキーも一端のロック・ファンである。生真面目なスティーブは、仲間たちからの様々なレクチャーを受け趣味というよりほとんど勉強のようなつもりでレコードを蒐集していた。だからこの部屋にある大量のレコードはきちんと年代別・ジャンル別に並べられていて、お陰でバッキーはいまや、ちょっとした論客くらいのレベルで現代音楽史について語ることが出来る。ビートルズの登場がどれほどセンセーショナルだったか、スティーブに語って聞かせたこともあった。もっとも当のスティーブはいつもお決まりのオールド・ジャズばかり聴くので、いまだエルヴィス・プレスリーやチャック・ベリーにすら辿り着いていないのだが。
いくつかのチャンネルをザッピングし、ようやく耳に合う番組に巡り合った。ディスクジョッキーは、スティーブやバッキーの息子ぐらいの歳だろうか。もちろん二人とも子供はいないし、見かけだけはまだ三十代も半ばといったところだ。ふいに可笑しくなって、バッキーは吐息だけで静かに笑った。
戦争が終わってしばらくたち、アメリカが一番元気で、一番狂っていた頃に産まれただろう彼は、少し古い曲だけれど、と前置きして、けれど英国音楽史に残るロック・バンドの曲で、たくさんのアーティストがカバーした名曲だと付け加えた。良いものはいつの時代でも、誰もの胸に訴えかけるものがあるのだ、と。バッキーは今もどこかで戦っているスティーブのことを思い浮かべて少しばかり胸を熱くしたが、それでもやはりあのコスチュームは無いだろうと思い直した。せめて、あの腹周りだけでもなんとかならないのだろうか。
曲が始まったので、バッキーは再び窓辺の定位置へと戻った。簡素な安楽椅子に掛け、出窓に肘をついて顎を置く。ロックというには少しばかりのんびりとしすぎていて、どこか郷愁を誘う曲だ。時代に逆行したその音は、けれどまさしく自分達に相応しいような気もして、バッキーはしばし聴き入った。
この曲がリリースされた頃のソビエトでは、西側の音楽はすべて、聴くことも歌うことも禁止されていた。それ以前の話として、ウィンター・ソルジャーにレコードを聴かせようなどという酔狂者などいるはずもない。だからバッキーにとってロック・ミュージックを聴くことは、失われた数十年を少しずつ埋めていく作業でもあった。自分は確かに生きていたはずなのに、そこには見たことも聴いたこともない文化がたくさんあった。誰が言ったか、あの頃のバッキーはまさしく亡霊だった。
奇特なディスクジョッキーがその曲のカヴァーバージョンをいくつか流したお陰で、バッキーは何度も同じ曲を聴く羽目になった。若々しく投げやりな声だったり、情感たっぷりの官能的な声だったり、様々だ。けれど、歌わている情景だけは変わらない。川に落ちる夕焼けが美しいのだということ、僕は――僕達は、それを見ているだけで幸せなのだということ。ただそれだけだった。
窓から西日が差し始めたころ、バッキーは思い出したようにレコード・プレーヤーを確かめに立った。よくよく確認すると、レコードの盤面に細い傷が見える。ならば針は無事だということだ。バッキーはほっとして、それから目当てのレコードを探し出し、そっと針を落とした。
「――ただいま。バッキー?」
ドアベルが鳴り、最も耳慣れた声がバッキーを呼ぶ。硝煙と血と汗の匂いを連れたスティーブが、気の抜けた足音を立てながら側に寄ってきた。退屈が遠ざかり、この世で最も尊いとすら思える体温が近付いてくる。
「おう、お帰り。スティーブ」
腰掛けたままのバッキーをハグしようと、スティーブがその小さな頭を擡げた。西日に照らされた柔らかなブロンドが、うつくしいオレンジ色に染まる。およそ平和的とは言えない匂いを纏った男が、頭の先から暖かなオレンジ色に染まっていく。
「またすぐに出かけなきゃならないんだけど……三時間だけもぎ取ってきた」
服装こそどこにでもいそうな一般的アメリカ人男性そのものだが、右腕に持ったままの盾が、こんなときでも彼をキャプテン・アメリカたらしめている。でも悪戯をきめて得意げに笑う少年のようなその笑顔は間違いなくスティーブ・ロジャースのもので、そのアンバランスさはバッキーをいつも堪らない気持ちにさせる。
「悪い奴だ、今度は誰を泣かせた?」
「人聞きの悪いこと言うなよ。今日はちゃんと丁寧に頼み込んだ」
「どうだか。下っ端にしてみりゃ、キャプテン・アメリカのお願いは脅しとおんなじだろ」
肩のところにある頭を軽く小突くと、背中に回された腕がいたずらに尻を撫でた。
二人の関係を表す言葉に「恋人」の文字が加わったのはほんの弾みからだったが、「親友」の範疇を少しずつ踏み外しはじめたのは多分、ずっとずっと昔のことだ。そこに様々な運命の悪戯がスパイスとして降りかかり、二人は切り立った崖を転げ落ちるように堕落して、あっという間に敬虔なキリスト教徒であることをやめた。
「……いい曲だね。誰の曲?」
「んー、イギリス人」
「もう少しヒントが欲しいところだ」
自分で調べろと意地悪を言い、スティーブも意地が悪いな、と言って笑う。昔は逆だった。バッキーのほうがあれこれ聞きたがって、スティーブはそれを煙たがった。夜遊び以外のことについては、たいていスティーブのほうがずっと詳しかった。そういう他愛のないやりとりが、ずっと続くと思っていた。
「ロンドン、懐かしいな」
スティーブが笑う。あの場所のことをこんなふうに笑って話せる日が来たのだ。気の遠くなるような長い時間がかかった。何もかもがほんとうに、長かった。
バッキーは静かに笑った。遠くきらめくイースト・リバーは相変わらずうつくしく、スティーブのブロンド・ヘアも昔のまま、いつまでもいつまでもうつくしいのだった。
