07.Shangri-la
帰る場所があるというのはいい。
それが冷たいポッドや牢獄のような実験施設でなければ、なおさらいい。多少古臭くても。
「それにしても、あんまりじゃない?」
西日に照らされて赤みを増したボブヘアーがさらさらと揺れる。まるで家主のように二人掛けのソファーを占領する姿はさながら女王だ。バッキーは異を唱えることもせず愛用の安楽椅子に腰掛け、出窓の桟にグレーのマグを置いた。ナターシャ・ロマノフはうつくしい女性だけれど、薔薇よりもっと恐ろしい棘を隠し持っている。それを、バッキーは誰よりよく知っていた。
「言うほどか? どこだってソビエトよりはマシだろ」
まあね、とにこりともせず肩を竦めたナターシャが、来客用の白いマグを傾ける。スティーブはついさっき、突然の呼び出しに追われ慌ただしく出て行った。入れ替わるように訪ねてきたナターシャは私服姿で、ずいぶんとリラックスしているように見える。すわ何事かと思ったけれど、この様子なら地球に危機が迫っているわけではなさそうだった。なによりである。
「――ところで用件だけど」
前置きもそこそこに、ナターシャが真っ赤な唇を開く。
「あなたの訓練、明日からだから」
「そうか」
「ええ。今日の昼にようやく許可がおりて」
「思ったよりはやかったな」
「選り好みしてられない状況なのよ」
「へえ。スーパーヒーローってのも大変だな」
肩を竦めて笑ったバッキーを、ナターシャの瞳がひたりと見た。
「明日からは、あなたもヒーローよ」
頷くことはしなかった。眼下に広がるブルックリンの街を見下ろし、マグを傾ける。
裁判に次ぐ裁判。公聴会。司法取引。まるで映画のワンシーンのような怒涛の日々が終わり、それからは療養という名の自宅謹慎。奪われたもの、奪ったものの大きさに比べれば、それはいっそあっけないほどだった。
「訓練教官は?」
「もちろん私よ。ごめんなさいね、スティーブじゃなくて」
「お手柔らかに頼むよ」
苦笑して、ちいさく頭を振った。訓練とナターシャは言うが、おそらく適性検査のようなものだろう。眠りのうちに七十年の時を超えたスティーブとは違い、バッキーはついこのあいだまで一線級の暗殺者だった。最新式の銃火器はもちろん、戦闘機の操縦からデジタルガジェットの使い方まですべて叩き込まれている。忌々しいことに。
そういえば昔彼女の脇腹に穴を開けたんだっけ、とバッキーはいまさらほんのすこしだけ気まずい思いをした。
「安心して。この貸しは別のところで返してもらうから」
「おっと、お見通しか」
わざとらしくおどけてみせたけれど、ナターシャは意にも介さずコーヒーを啜っている。強い女性だ。彼女がいなければ、スティーブとの再会も叶わなかった。バッキーが彼を一人にしていたあいだ、サムと共に彼を支えてくれていた。いくら感謝してもしきれないほどの恩がある。
「君には本当にたくさんの借りがあるな」
「まあね。取り立ては良心的だから、安心して頂戴」
「必ず返すよ。約束する」
真面目くさって言うと、ナターシャがようやく口角を上げた。
「――なんだ。思ったより元気そうじゃない」
もうひとつ気まずい思いをして、バッキーはまた肩を竦めておどけた。
「がっかりした?」
「ちょっとね」
ナターシャも調子をあわせ、さきほどよりも幾分砕けた顔で笑った。魅力的な笑顔だった。
ただひたすらに罰を望むだけの時間は過ぎた。遺された人間がどれほど泣き喚いて怒鳴り散らそうと、奪われたものは二度と還ってこない。バッキーが、平凡で穏やかな人生を二度と望めないように。歪められた七十年を二度とやり直せないのと同じように。罪は償う。けれど、その行為がどれだけ無意味でひとりよがりなことかも知っている。簡単には割り切れない。何もかも。
けれど、生きている人間との約束を果たすことはそれほど難しいことじゃない。すべては自分次第だ。
「じゃあ、そろそろ帰るわ。スティーブによろしく」
「ああ、気をつけて。……また明日」
見送りは結構、と言うナターシャの背中がリビングから消え、バッキーは静かな部屋で一人安楽椅子を軋ませた。ただ無性にスティーブに会いたくなって、めったに使うことのないスマートフォンを取り出す。
二十秒。それだけ待って出なければ、メッセンジャーに「間違った」とでも送ろうと思っていた。
『バッキー?』
こんな時ばかりはスティーブの生真面目さが恨めしくもあり、またどうしようもなく嬉しくもあり。電話なんてほとんどかけないから、はじめになんと切り出していいのか分からなかった。
「……ハイ、スティーブ」
『珍しいな、お前が電話なんて』
ああ、とかうん、とか、曖昧な言葉をいくつか返したあとで、ようやく「今日は遅くなるのか」と無難な問いかけを捻りだす。受話器の向こうでスティーブが笑いを噛み殺す気配を感じた。
『もうすぐ着くよ。いま玄関』
「えっ」
バッキーが立ち上がるのとほとんど同時にドアベルが鳴る。
「ただいま」
「……お帰り」
全身から喜色をにじませたスティーブの抱擁を受け、バッキーは恥ずかしさといたたまれなさに顔を赤くした。間が悪いにもほどがある。
「さっき、そこでナターシャに会ったよ」
「うん」
「……明日からか」
「……ああ」
それ以上の言葉はいらなかった。スティーブの抱擁がきつくなり、バッキーの胸が詰まる。
バッキー・バーンズは一度死に、ウィンター・ソルジャーとして蘇り、再び死んだ。いまのバッキーはそのどちらでもない。ただスティーブ・ロジャースを愛する一人の男だった。彼の帰りを待ち、家を温め、お帰りと言う。それだけはこれからも変わることのない、バッキーのただひとつの望み。幸福。この家とスティーブだけが、いまのバッキーにとってのすべてだった。
失ったものは数えきれないけれど、一番価値あるものはまだ残されていた。それだけあれば、どんなことにでも耐えられる。
「頑張りすぎるなよ」
「そりゃあ、ロマノフ次第だな」
二人揃って笑い、背中を叩きあう。
スティーブを穢してしまうんじゃないかと思っていた。自分の存在は、どう考えても彼の汚点になる。スティーブには、うつくしい思い出だけを留めていてほしかった。こんなポンコツのために人生を台無しにしないでほしかった。一度堕ちるところまで堕ちれば、きっと目を覚ますだろうと思っていた。
でも、スティーブのうつくしさは何一つ、損なわれなかった。
「そうだ。合鍵つくらないと」
「……ああ、そうか」
バッキーの肩に顎をのせたスティーブが、思い出したように言った。バッキーが一人で外に出ることはこれまで許可されていなかったから、鍵はおろか財布やカバンすらも持っていない。外出用の服だってスーツが一着ある以外はスティーブのお下がりだった。
「いろいろ必要になるなあ。嬉しい悲鳴だ」
「はは、俺も稼がねえとな」
そう言って笑ったバッキーの背中を、スティーブがもう一度軽く叩いた。
「どこに行ってもいいけど……ちゃんと、帰ってこいよ」
あたりまえだろ。俺がここ以外のどこに帰るっていうんだ。
言ったそばから言葉とともに唇を奪われ、バッキーは不自由な唇で音もなく笑った。
END
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