夏と秋のちょうど境目、というような気候の朝だった。
日差しは暖かいのに風は冷たくて、半袖では少し寒いけれど上着が必要というほどではない。燃えるごみの入った袋を持ってアパートを出た蓮は、すぐ戻るからといつものレザーパンツに借り物のTシャツ姿で出掛けて来たことを少しだけ後悔した。胸元に躍る「闘魂」の二文字を隠すように腕を組み、道端の野良猫を追い越してゆっくりと歩く。
真司の寝起きが壊滅的に悪いのは今にはじまった話ではなく、さりとて寝付きが悪くて眠りが浅いというわけでもないのだから、あいつの睡眠サイクルは一体どうなってるんだと内心で呆れ混じりの悪態をついた。
あれほど理解に苦しむ生き物は見たことがない。
かつてはその生態を「馬鹿」の一言で括っていたが、最近では、もっと適切な言葉はないだろうかと首を捻ることも多い。あれは馬鹿を超えた何かだ。城戸真司という名前の、新種の生き物。サル目ヒト科ヒト属の、城戸真司という別種の生き物だ。
城戸真司という生き物の生態について一家言ある蓮は、今朝もその奇妙な生態に振り回されて目を覚ました。例によって例のごとく大いびきをかきながら寝入っていた真司が、突然勢いよく上半身を起こし「燃えるごみ!」と叫んだのだ。そのすぐあと、真司は電池が切れたように再び枕へと倒れこんだ。その叫び声で目覚めた蓮は、よっぽど頬でも張ってやろうかと考え込んだあと、頭を冷やすために台所で水を一杯飲み、冷蔵庫に貼られたごみ収集の日程表を見つけた。シンク下収納の取っ手にかけられたスーパーの袋。そこから覗く干からびたナスのへたと、気持ちよさそうに上下する真司の肩を交互に見る。
結局のところ蓮は、城戸真司という生き物にとことん弱いのだった。
電柱の脇にネットを張っただけのゴミ置き場には、先客らしい婦人が三人ほど輪になって世間話に興じている。真司のアパートはいかにも下町然とした昔ながらの住宅街にあって、蓮のような余所者は大いに目立った。案の定近づくにつれ遠巻きに窺うような視線を感じた蓮は、うんざりとした胸中を隠してぺこりと会釈を返す。
「ねえ。あなた、真ちゃんのお友達よね?」
目的を果たす直前、輪の中にいたうちの一人からそう声を掛けられ、一瞬答えに詰まった。お友達、ではない。断じて違う。
「……知り合いです」
口ごもりながら顔じゅうに不服と書いてそう返した蓮に、歳の頃五十半ばほどだろう婦人がにっこりと笑った。
「あらそう。でも、よかったわあ」
「はあ」
「いやね、うちの主人が会社の人と釣りに行ったんだけど、普段は全然からきしなの。それがね、今回に限ってものすごい大漁だったのよ」
「はあ」
「だから真ちゃんにもおすそ分けと思ったんだけど、ほら、あの子朝はいっつも忙しそうじゃない。でも生ものだからお部屋の前に置いとくってのもどうかと思って、困ってたのよ」
「はあ」
「うちのお婆ちゃんたら、真ちゃんのことが大のお気に入りでねえ。孫がみんな他所に嫁いじゃったもんだから、もう、なにかって言うと真ちゃん真ちゃんって、うるさいのよ」
「……はあ」
「今朝もね、焼き魚にしたんだけど、真ちゃんにも持ってってやれって、もう何回も何回も」
後半の話はほとんど聞き流したが、とにかく、真司のあの奇妙な生態がこの一家の人々の心をがっちりと掴んでいるということだけは分かった。
ちょっと待ってて頂戴ね、と婦人が小走りに駆け出すのを、ぼんやりと見送る。すると残された別の婦人が「あら、そうだわ」と手を叩いた。
「旦那の田舎が茨城なんだけれどね、この時期になると毎年毎年、段ボールでひと箱も梨が送られてくるのよ。子供もみんな独立しちゃって、夫婦二人じゃこんなにたくさん食べきれないって言ってるのに……」
そうして再び「ちょっと待ってて頂戴ね」と置いてけぼりを食らう。最後に残された婦人が「うちにも何かあったかしら」と悩みだすのを「お気持ちだけで結構です」と制し、右手に提げたままだった袋をごみの山の上へそっとおろした。
そういうわけで、帰る頃には燃えるごみの袋が魚と梨とおまけの秋野菜に化け、蓮はまるで狐につままれたような気分になりながら元来た道を戻った。道端の野良猫がにゃあ、と呑気に鳴き、匂いに釣られたように足元へまとわりつく。その焦げ茶色の頭を見下ろしながら、いまだベッドの住人だろう真司の、自由奔放に跳ね散らかした長髪を思い出した。
一方的で、馴れ馴れしくて、嵐のように騒々しく、時々はこうして魚や梨に化ける、奇妙な生き物。右腕にかかるずしりとした重みに、蓮は、とうとう城戸真司という生き物の正体をみたような気がしていた。
2019.10.8
日差しは暖かいのに風は冷たくて、半袖では少し寒いけれど上着が必要というほどではない。燃えるごみの入った袋を持ってアパートを出た蓮は、すぐ戻るからといつものレザーパンツに借り物のTシャツ姿で出掛けて来たことを少しだけ後悔した。胸元に躍る「闘魂」の二文字を隠すように腕を組み、道端の野良猫を追い越してゆっくりと歩く。
真司の寝起きが壊滅的に悪いのは今にはじまった話ではなく、さりとて寝付きが悪くて眠りが浅いというわけでもないのだから、あいつの睡眠サイクルは一体どうなってるんだと内心で呆れ混じりの悪態をついた。
あれほど理解に苦しむ生き物は見たことがない。
かつてはその生態を「馬鹿」の一言で括っていたが、最近では、もっと適切な言葉はないだろうかと首を捻ることも多い。あれは馬鹿を超えた何かだ。城戸真司という名前の、新種の生き物。サル目ヒト科ヒト属の、城戸真司という別種の生き物だ。
城戸真司という生き物の生態について一家言ある蓮は、今朝もその奇妙な生態に振り回されて目を覚ました。例によって例のごとく大いびきをかきながら寝入っていた真司が、突然勢いよく上半身を起こし「燃えるごみ!」と叫んだのだ。そのすぐあと、真司は電池が切れたように再び枕へと倒れこんだ。その叫び声で目覚めた蓮は、よっぽど頬でも張ってやろうかと考え込んだあと、頭を冷やすために台所で水を一杯飲み、冷蔵庫に貼られたごみ収集の日程表を見つけた。シンク下収納の取っ手にかけられたスーパーの袋。そこから覗く干からびたナスのへたと、気持ちよさそうに上下する真司の肩を交互に見る。
結局のところ蓮は、城戸真司という生き物にとことん弱いのだった。
電柱の脇にネットを張っただけのゴミ置き場には、先客らしい婦人が三人ほど輪になって世間話に興じている。真司のアパートはいかにも下町然とした昔ながらの住宅街にあって、蓮のような余所者は大いに目立った。案の定近づくにつれ遠巻きに窺うような視線を感じた蓮は、うんざりとした胸中を隠してぺこりと会釈を返す。
「ねえ。あなた、真ちゃんのお友達よね?」
目的を果たす直前、輪の中にいたうちの一人からそう声を掛けられ、一瞬答えに詰まった。お友達、ではない。断じて違う。
「……知り合いです」
口ごもりながら顔じゅうに不服と書いてそう返した蓮に、歳の頃五十半ばほどだろう婦人がにっこりと笑った。
「あらそう。でも、よかったわあ」
「はあ」
「いやね、うちの主人が会社の人と釣りに行ったんだけど、普段は全然からきしなの。それがね、今回に限ってものすごい大漁だったのよ」
「はあ」
「だから真ちゃんにもおすそ分けと思ったんだけど、ほら、あの子朝はいっつも忙しそうじゃない。でも生ものだからお部屋の前に置いとくってのもどうかと思って、困ってたのよ」
「はあ」
「うちのお婆ちゃんたら、真ちゃんのことが大のお気に入りでねえ。孫がみんな他所に嫁いじゃったもんだから、もう、なにかって言うと真ちゃん真ちゃんって、うるさいのよ」
「……はあ」
「今朝もね、焼き魚にしたんだけど、真ちゃんにも持ってってやれって、もう何回も何回も」
後半の話はほとんど聞き流したが、とにかく、真司のあの奇妙な生態がこの一家の人々の心をがっちりと掴んでいるということだけは分かった。
ちょっと待ってて頂戴ね、と婦人が小走りに駆け出すのを、ぼんやりと見送る。すると残された別の婦人が「あら、そうだわ」と手を叩いた。
「旦那の田舎が茨城なんだけれどね、この時期になると毎年毎年、段ボールでひと箱も梨が送られてくるのよ。子供もみんな独立しちゃって、夫婦二人じゃこんなにたくさん食べきれないって言ってるのに……」
そうして再び「ちょっと待ってて頂戴ね」と置いてけぼりを食らう。最後に残された婦人が「うちにも何かあったかしら」と悩みだすのを「お気持ちだけで結構です」と制し、右手に提げたままだった袋をごみの山の上へそっとおろした。
そういうわけで、帰る頃には燃えるごみの袋が魚と梨とおまけの秋野菜に化け、蓮はまるで狐につままれたような気分になりながら元来た道を戻った。道端の野良猫がにゃあ、と呑気に鳴き、匂いに釣られたように足元へまとわりつく。その焦げ茶色の頭を見下ろしながら、いまだベッドの住人だろう真司の、自由奔放に跳ね散らかした長髪を思い出した。
一方的で、馴れ馴れしくて、嵐のように騒々しく、時々はこうして魚や梨に化ける、奇妙な生き物。右腕にかかるずしりとした重みに、蓮は、とうとう城戸真司という生き物の正体をみたような気がしていた。
2019.10.8
