幸せな結末(蓮真)

 秋山蓮のマンションにはほとんどといっていいほど無駄なものがない。
 真司はちいさな声で「おじゃまします」と言い、自分の部屋とはまったく正反対の、ちりひとつなく整然とした玄関でくたびれたスニーカーを脱いだ。二、三歩あるいてから慌てて振り返り、転んだハイカットのコンバースを起こして踵を揃える。それから、隣にある黒のレザーブーツを汚さないよう、すこしばかり距離を開けてそっと並べた。
 色々な形をしたさまざまなブランドの安いスニーカーをただ適当に履き潰す真司とは違い、蓮は、気に入ったブランドの似たような形をしたブーツを何足も丁寧に履き継いでいる。服や鞄、バイクや家具や家電もそうだ。
 真司と蓮は、誰の目にもはっきりわかるほど正反対な二人だった。
 人の縁というのはおかしなもので、蓮とは、取材の合間に偶然飛び込んだ紅茶専門の喫茶店で偶然出会っただけの間柄だった。それがひょんなことから二人揃って住み込みのアルバイトとなり、巡り巡って、住み込みを解消したあとでも合鍵を使って互いの家を行き来する関係が続いている。
 親友、と呼べるほどの熱量がある間柄ではない。
 けれど、大勢いる友人の一人と切って捨てられるほど浅い関係でもない。
 真司はわりあいに前世や運命などというオカルトめいた巡り合わせを信じるほうで、こんな正反対な二人が付かず離れずの友人関係を続けているのだから、きっと蓮との間には切っても切れない因縁めいたものがあるのだと思っていた。蓮がどう思っているか確かめてみたことはない。確かめたところで、きっと「馬鹿か」と一笑に付されるのがオチだからだ。
 蓮はいつだってそうだ。
 じたばたと空回る真司のことを少し高いところから見下ろして、余裕たっぷりに「馬鹿か」と笑う。嫌味なほど長い足を翻して、さっさと先へ行ってしまう。まるで、真司のことなどブーツの一足よりも取るに足らない男だとでも言いたげに。
 けれど、真司は、そんな蓮のことをどうしても嫌いにはなれなかった。
 自分でも不思議に思う。これまで持ったどんな友人より冷たくて、嫌味で、がめつくて、趣味だってひとつも合わないのに、真司は、なぜか蓮のことを嫌いになれないのだ。それどころか、時折無性に彼が元気にしているのか確かめたくなる。その顔を見て、ああ元気だ、大丈夫だ、と安心したくなる。
 だからこうして、家主のいない部屋へも甲斐甲斐しく訪れるのだった。
 完璧に整頓されたキッチンへ入り、指紋ひとつない大きな冷蔵庫を開ける。中身はほとんど空だった。以前真司が持ち込んだ発泡酒の残りと炭酸水、それと調味料がいくつかあるだけだ。
 真司は大きなため息をひとつ吐いて、背負っていた重いリュックを床におろした。すでに半分開いていたチャックを勢いよく引っ張り、自宅から持参した食材を次々と取り出す。鶏ひき肉、ネギ、白菜、しいたけ、生姜。本当は餃子にしようかと思っていたけれど、キッチンに臭いがつくことを嫌がる蓮のために、今日はつみれ入りのスープにする予定だ。
 蓮はまったくと言っていいほど自炊をしない。何をして生計を立てているのかはわからないが、不思議と金に困っている様子はなく、外食を好み、家では酒を飲む以外にほとんど飲食をしないらしかった。
 こんなところだって、絵に描いたように正反対だ。真司はいつ何時も金に困っていて、時間があれば好んで自炊をする。ちなみに、一番の得意料理は餃子だ。



 知らぬ間に転た寝をしていたらしかった。
 夕食を作り終え、どうせ蓮は遅くなるだろうと先に食事を済ませた。冷めたスープを冷蔵庫にしまい、食器の後片付けまで済ませてしまって、それから暇潰しにテレビをつけたところまでは覚えている。
 ソファとテーブルの間に座り込み、ソファの座面を背もたれにして眠っていたらしかった。そのせいか、テーブルの下にだらしなく投げ出した両足が少し痺れている。
 中途半端な寝かたをしたせいか、体のあちこちが鈍く痛んだ。うんざりとしながら重い瞼を持ち上げ、霞む目を手の甲で乱暴に擦る。
 すると、右側にじっと立つ男の黒い爪先が視界の端に映った。
「……蓮?」
 おかえり、はやかったな。いつも通りの軽い調子でそう声をかけようとして、咄嗟にその口を噤む。
 馬鹿だ阿保だと散々に言われる真司でも、蓮の様子がおかしいことは分かった。いつもの蓮なら、真司が寝ていようがお構いなしに自分のペースでやりたいことをやる。なにか用事があれば蹴ってでも真司を起こすし、なにもなければ声のひとつもかけずに再び出掛けていくことすらあった。
 けれど、今夜は違う。
「蓮? どうした?」
 仰ぎ見るように顔をあげ、痛む首を傾げて問う。けれど、相変わらず答えはなかった。困惑と焦燥にかられ、それ以上の言葉を継げなくなる。
 蓮は、苦しげに眉を寄せ、目を見開いてじっと真司を見下ろしていた。まるで亡霊でも見たような顔だ。驚きと恐怖に全身を竦ませ、ただじっと真司を見下ろしている。
 長い付き合いになるが、こんな蓮の姿を見るのは初めてだった。
「――血が」
「え?」
 不意のことで、彼が何を言っているのか全く理解できない。眉を寄せて首を傾げた真司に、血が、と蓮は再び譫言のように繰り返した。
「血ぃ? 血、って……。あ、鼻血でも出てたとか?」
 戸惑いを隠しながら、わざとらしいほど明るくそう返す。念のため確かめるように指先で鼻の周りを触ってみたが、当然、鼻血など出てはいなかった。へらへらと笑いながら落ち着きなく動く真司を、いつものように「馬鹿か」と罵る声もない。
 真司はしんと張りつめた空気をどう和らげてよいかわからず、あー、うー、と言葉にならない呻きを漏らしながら、自分を見下ろす男の顔を睨んだ。ぱさついた長い茶髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜ、ああもう、と焦れったさに唸る。
「――蓮っ、お前、一体どうしたんだよ!」
 真司は凍ったように動かない蓮を見上げたまま、ヘンだよ、何かあったなら言えよ、と噛みつくように畳みかけた。けれど案の定と言うべきか、蓮は苦しげな表情を浮かべたままじっと黙り込んでいる。
 とうとう痺れを切らした真司が、立ち上がって肩でも揺さぶってやろうと思い立った時だった。
「痛……っ!」
 長い時間硬い床に座り込んでいたせいで、勢いよく持ちあげた腰に鈍い痛みが走る。
 その瞬間、蓮の長い脚が真司の目の前にあるテーブルを強かに蹴り飛ばした。
「うおっ」
 その行動よりもまず大きな音に驚き、反射的に身を竦ませる。なにすんだよ、とぎょっとしながら蓮の顔を見上げたが、その顔には怒りや苛立ちのような色は微塵も浮かんでおらず、ますます真司を困惑させた。それどころか、自分で蹴ったテーブルの行方を気にする様子もない。その目はただ恐怖を湛え、じっと真司を見据えていた。
 ――いや、違う。
 蓮の目に、真司の顔は映っていない。正確には真司の顔ではなく、真司の腹のあたりと背後にあるソファを、焦点の合わない目で怯えたように睨みつけていた。そんなふうに睨んだところで、そこには何も変わったところはないはずだ。それでも、蓮の目には何かが映っているのだろう。
 真司が驚きと戸惑いに身を竦ませていると、蓮は唐突にその長身を屈め、蹴り飛ばされて動いたテーブルと真司の間にしゃがみこんだ。そして、馬乗りになるように真司の両足を跨ぐ。
「れ、蓮!?」
 蓮の意図が読めない恐怖から、彼の名を呼ぶ声が間抜けに裏返った。咄嗟に押し返そうと伸ばした両腕を取られ、そのままソファへ押し付けられる。あまりのことに、真司は嫌ともよせとも言えないまま反射的に体を強張らせた。暴力とは言わないまでも、少しの行き違いでそこへ派生しそうな危うい雰囲気はある。
 蓮はなおも黙り込んだまま掴んだ両腕を右手だけで抑え込むと、左手で真司の着ていたボーダーシャツを下着ごと強引に引っ張り上げた。そして、恐る恐る、といった手つきで真司の薄い腹へ触れ、唇を震わせる。
「城戸……」
 その弱弱しい声。冷え切った手のひら。
 そんな声で呼ばれ、怯えたように触れられて、真司の心臓は軋むように鳴った。こんな蓮は知らない。知らないが、どうやら、なにかある種のトラウマめいたものを刺激してしまったらしいことだけは分かった。
 蓮は謎の多い男で、長年親しくしている真司でさえその生い立ちや経歴、交友関係などは教えられていない。ただ、一度だけぽつりと、どうしても忘れられない相手がいるのだと、寝物語に呟いていたことがあった。
 そうだ。
 きっと、かつてなにかとてつもなく恐ろしい目にあったことがあるのだ。
 例えば、忘れられないという相手との別離にまつわる、なにか。
 そう感付いた瞬間、純粋な哀れみとも違う、言い表しようのない感情が真司の胸を焦がした。可哀そうで、もどかしくて、なんとかしてやりたいと思うのに、蓮にこんな顔をさせる誰かが、なにかが、ひどく――妬ましい。
「蓮、おまえ、なにがあったの。……誰見てんだよ」
 ごつごつとした大きな手のひらに腹をまさぐられながら、真司は、途方に暮れた気分でそう呟いた。蓮が何をしたいのかも、自分が何をしてやれるのかもわからない。蓮は相変わらず真司の腹をまさぐっていて、それは、暴力とも愛撫とも違う、ただ偏執的としか言いようのない行為だった。
 両腕が自由になるのなら、抱きしめて、大丈夫だと言ってやりたかった。俺は大丈夫、生きてる、もう大丈夫だから、と。
 なにもかも、すべて、終わったのだ、と。
 唐突に頭の中へ浮かんだそれらの言葉に、自分自身が一番戸惑っていた。何が大丈夫なのか。生きてるって、そりゃあ、そうだろう。終わったって、一体なにが。疑問だらけだ。けれど、不思議と違和感は覚えなかった。それらがすべて今の蓮に必要な言葉だと、頭ではなく、感覚で理解している。
 だから、思い切って口を開いた。
「蓮。俺は生きてるし、お腹もなんともない。ほら、血だって出てないだろ。……大丈夫だから。全部、終わったんだ」
 ――生きてその願いを叶えろ!
 不意に、そんな声が脳裏に響いた。きっと蓮の声だ。とても嬉しかったのに。自分のために声を張り上げ、なりふり構わず膝を折り、涙――は、どうだったろう。目が霞んでいたから、その表情はほとんど分からなかった。でも、たとえ泣いてくれなくとも、真司は心の底から嬉しかったのだ。
 蓮が生き延びて自分の死を悼んでくれたという、たったそれだけのことが、あんなに、嬉しかった。
「そっか、俺……」
 好きだったんだ。蓮のことが、ずっと。
 心の中で、そっと、噛み締めるように呟く。
 ここではないどこかの、今ではないいつか。終わりのない地獄のような戦いの日々の中で、ずっと、蓮の幸福を祈っていた。彼の願いを踏みにじるような思いを口にしながら、それでも、蓮には幸せでいて欲しかった。冷酷な人殺しにならず、善き人間として、幸せになって欲しかった。
 彼が彼のままでいられるなら、その隣にいるのは自分でなくても良い。そう思ったから、死ぬことだって受け入れられた。痛かったし怖かったし未練だってたくさんあったけれど、それでも、真司は幸せだった。
 それなのに。
 どうして、この気持ちを忘れていられたのだろう。
「おまえだけが、ぜんぶ憶えてたんだな」
 そう言ってほほ笑んだ真司の頬を、蓮の震える両手がそっと包んだ。そして、かさついた親指で何かを拭うように何度も何度も唇をなぞられる。
「……血が、お前の血が」
 消えないんだ、と蓮の震える声が言った。
「なにもついてないだろ」
「でも、血が」
「だから、ついてないったら。……終わったんだよ、ぜんぶ、終わったんだ」
 そう言いながら、脳裏に懐かしい笑顔が過る。
 終わった、のではなく、彼女が終わらせたのだ。ありがとう、と心の奥で呟き、蓮の冷たい手に自分のそれを重ねる。そして、自身の熱を移すようにしばらくそうしていた。恐怖に歪んでいた蓮の顔が、次第に、子供のようなくしゃりとした泣き顔に変わってゆく。
 蓮の心をこれほどまでに深く傷つけていたのは、真司だった。他の誰でもない。真司の死が、蓮をずっと苦しめていたのだ。
 突き動かされるまま、胸元へ蓮の頭を抱き寄せる。
「ちゃんと動いてるだろ、心臓」
 思わず涙声になった真司の言葉に、ああ、と掠れた声が頷く。
「終わったのか」
「ああ。終わったんだよ」
「生きてる……」
「うん。生きてる」
 真司の心音を確かめるように、蓮の硬い頬が何度も擦り寄せられる。頬を包んでいた手が背中へ回され、二度と奪われまいとするように強く抱き寄せられた。真司も同じように抱き返してやながら、目の前にある素直な形のつむじへ顔を埋める。
 何が彼のスイッチを押したのか、真司にはまったく理解できなかった。顔を埋めていた頭がぐっと動き、あれ、と思う間もなく顎を掴まれる。
 気付いた時にはもう、唇を塞がれ、背後のソファへ押し倒されていた。



 蓮の部屋のソファは大きくて、大人一人が寝られるくらいの大きなカウチがついている。
 真司が泊りにくると、蓮はいつも「馬鹿は風邪を引かないんだろ」とか何とか言いながら、それでもどこからか来客用の枕とブランケットを出してくれ、立派な革張りのソファをベッド代わりに使わせてくれた。そういう分かりにくくて捻くれた優しさが、あの頃も今も好きだった。
 さすがに二人じゃ狭いな、と寝ぼけた頭でぼんやり思いながら、蓮の腕の中で身じろぎをする。すると、離すまいとして抱き締める腕に力がこもるのが妙におかしかった。
 そんなことしなくたって、俺は逃げないっての。
 小声でそう呟きながら、笑いを噛み殺してじっと蓮の寝顔を見つめる。蓮の寝顔を見るのは、じつはこれが初めてだった。蓮は恐ろしく寝起きがよくて、今も昔もすこぶる寝汚い真司とはまるきり正反対なのだ。
 きっと、これからもずっと正反対な二人だ。
 そんな二人を繋いでいたのは、運命などという綺麗な言葉で表すことのできるようなものではなかった。もっと血生臭くて、物騒な何か。本当なら、この世に存在しないほうが良かった何かだ。
 それでもいいと真司は思う。
「……なんだ、その顔」
「へへ。……おはよ、蓮」
 返事の代わりに、一際強く抱き締められた。どうやら、先ほどのみじろぎだけで起こしてしまったらしい。
 惜しいことをしたな、と思いながら、まあいいや、と目の前のぬくもりに体を預けてまどろんだ。
 きっと、これから先にも見るチャンスはたくさんある。
 だって、俺たちはもう戦わなくていいんだから。