ホプスコ

ドント・ウォーリー・ビー・ハッピー
 ずっと言いたかったことがあるの。
そう切り出すと、こちらに背を向けてスーツの修理に没頭していたスコットのきょとんとした瞳が、出会った頃にくらべて幾分厚みを増した肩越しに私を見た。この瞳が好きだ。きらきらとしていて、いつだって、どんなときだって楽しそうで、優しくて。はじめの頃は頼りなくって情けない顔、なんて思っていたけど、それは大きな間違いだった。今ではこの顔以上に私を安心させてくれるものなんてどこにもない。
「なに? 別れ話ならお断りだよ」
冗談めかして笑うスコットに苦笑して、ちいさく首を横に振った。
「残念だけど、違うわ」
「そいつはよかった」
スコットは軽い調子で笑い、今度は椅子ごとくるりと振り返った。私もラップトップを閉じ、彼のほうへと向き直る。そのしぐさだけで、スコットはなんとなく私の気持ちを察してくれたようだった。「オーケー」と手を叩き、「コーヒーを淹れてくる」と笑って立ち上がる。私は二人掛けのソファを半分占領していたバッグをよけ、代わりにスコットが一番気に入っているクッションをそこへ置いた。
「一緒にチョコレートケーキはどう? キャシーが焼いてくれたんだ」
「ほんとに? 最高!」
「そう、最高。味も見た目もね」
キッチンから覗く愛嬌たっぷりの笑顔とウィンクがとってもキュートで、私は彼そっくりの顔で笑うちいさな天使のことを思った。ダディ、と笑う満面の笑顔。なにかを企んでいるときのやんちゃそうな頬っぺた。私を見上げるきらきらとした瞳。
「ちゃんと写真は撮った?」
「もちろん。何十枚もね」
「あとで送って」
待ちきれなくて私もキッチンへ向かうと、二つ並んだマグカップの横に、二人で食べるのに丁度いいサイズの小振りなホールケーキがあった。ぴかぴかにコーティングされたブラウンのキャンバスの上に、ホワイトチョコレートで様々な文字やイラストが描かれている。一番大きく描かれているのは多分、蟻だ。その両脇には手足をいっぱいに広げて勇ましく立つアントマンと――ワスプ。
「これ、私?」
「――正解! そっくりだろ!」
「……嬉しい」
思わず息をのんだ私を、スコットの優しい瞳が覗き込んだ。見つめ返すと、きらきらと光る薄いヘーゼルグリーンの虹彩に、どうしようもなく嬉しい、最高、愛してるって感情を爆発させて笑う私が映る。彼と出会う前、自分がどんな顔で笑っていたのか、もう思い出せなかった。
「キャシーに伝えとくよ。君がすっごく喜んでたって」
「すっごくどころじゃないわ! ものすごく、めちゃくちゃ、最高に喜んでたって伝えて」
「了解」
それ以上なにも言えずにはにかむ私の背中を、スコットの暖かい手がとんとんと叩く。けれどすぐに破顔したスコットは、意気揚々と二人分のマグカップを掴んで言った。
「感動するのはまだ早いよ、ホープ。皿についたチョコまで舐めて、それからすぐに電話でこう言うんだ。『君は天才パティシエだ、ピーナッツ』ってね」
返事の代わりにちいさく頷いた私を先導するように頷き返し、スコットがリビングへと向かう。お気に入りのクッションに腰を預け、浮き立つ気持ちを隠しもせずに私を手まねいた。私もシャイな女の子のふりをするのはやめて、すぐ彼に続いた。お皿に乗ったケーキを宝物みたいにそっと持ちあげ、スコットの待つリビングへ戻る。
キャシーの手作りケーキは、彼女らしい探求心と遊び心に満ちた味だった。口に運ぶたび発見がある。ときどき飲み込むのに苦労することもないとは言えなかったけれど、それでも食べ終わったあとは予告通りキャシーに電話をかけ、二人がかりで彼女の才能を褒め称えた。
「――将来はサッカーのナショナルチーム入りで決まりだと思ってたけど、わからなくなってきたな」
「ずいぶん気が早いのね」
すっかり呆れて隣を見ると、そこには思いのほか真剣に思い悩むスコットの横顔があった。彼には悪いけれどなんだか笑えてきて、つい緩みがちになる口許を隠すようにぬくるなりはじめたラテを含む。そんな私に気付いたスコットが、おおげさに目を見開き、手酷い裏切りでも受けたと言わんばかりの顔で私を見た。
「そういう君だって『お店の名前は私に決めさせてよね』って言ってたじゃないか!」
「それ、あなたが『みんなで西海岸一のケーキショップを目指そう』なんて言い出したからでしょ!」
それからしばらく二人して睨み合っていたけれど、結局先に吹き出したのは私だった。スコットもすぐに続き、二人で肩を震わせながら笑う。
「……あーあ、私ったらもう、バカみたい」
「そう、つまりこれが”親バカ”ってやつだな」
その言葉にもう一度吹き出し、笑いすぎて滲んだ涙を拭った。スコットといるといつもこうだ。今日だって言わなきゃいけないことがあったはずなのに、すっかり彼のペースに巻き込まれている。すこしだけ苦い顔をした私を気遣うように見たスコットは、けれどすぐに彼らしい朗らかさを取り戻して言った。
「――そうだ、君、なにか話があるんじゃなかった?」
もう一度聞くけど別れ話じゃないよね、と念を押してくるスコットに苦笑して、「あたりまえでしょ」と二人のあいだに置かれた彼の手を握る。
「……あのね。こんな素敵な日に言うべきことじゃないのはわかってるんだけど」
「なんだよ、改まって」
「エイヴァから聞いた。彼女、キャシーを……」
「よせよ、ホープ」
スコットは、それがどうした、というような顔で笑った。それが余計に辛い。
エイヴァが私たちのラボを奪うためにキャシーを使おうとし、それをビルが思い留まらせた。母さんが戻り、エイヴァの体にまつわる問題にも目処がたちはじめた頃、エイヴァ自身の口から謝罪とともにその事実を聞いたとき、私は全身の血が凍りついたような気分になった。
彼女は自分のしたこと、しようとしたことについてひどく後悔していたし、事情を知ったいまでは、怒りより彼女に対する同情心のほうが勝っている。母さんのことについて、いまさら彼女を責めるつもりはない。キャシーについては、責められるべきは私のほうだ。
母さんを取り戻したくて必死だった。何年もかけて掴んだ、たった一度のチャンスだった。でもそんなこと、スコットとキャシーにはなんの関係もない。いまならそれが痛いほど分かるけれど、あのときの私はそんな簡単なことすら分からなくなっていた。
「……ごめんなさい。私があなたを巻き込んだせいで」
「あれは俺のヘマだってば。これからはスーツを着てるときに電話に出たりしない。……なるべくね」
おどけたふうに肩をすくめたスコットは、それでも食い下がろうとする私を見て困り顔で笑った。
「よせったら。……ああ、君が弱気だと調子が狂うな」
「なによ、それ」
情けない顔で笑った私の頬を、スコットのかさついた親指が撫でる。母さんを失って、私の世界は大きく変わった。そしてこのひとが現れて、私の世界はもう一度変わった。その経験の全てがいまの私を形作っているわけだけれど、でも、味わう必要のない苦痛だってたくさんあった。そんな思いを、愛するキャシーやスコットには絶対にさせたくない。
「あのね、スコット。もしもこの先、キャシーと引き換えに何かを捨てなくちゃならなくなったら――その時は、私が何を言っても絶対に躊躇わないって約束して」
例えそれが、私や父さんや母さんや――世界の破滅と引き換えだったとしても。
私の言葉に、スコットが大きなため息をはいた。
「ホープ、君のそういう真面目で頑ななところも大好きだけど――たまには俺の意見も聞いてくれない?」
口を挟もうとする私を笑顔で遮り、スコットが言う。
「俺が君たちを見捨てて、世界中で俺たちだけが助かったとしてさ、それでキャシーが喜ぶと思う?」
キャシーは勇敢で、賢くて、それにとっても優しい子だ。スコットがいちいち説明しなくても、きっと何があったかすぐに察してしまうだろう。ダディ、ホープは?――そう問いかけるキャシーに、スコットがどんな気持ちで何を言うか。私はその全てをありありと想像することができた。
何も言い返せずに黙りこむ私に、スコットがおどけた顔で笑いかける。
「そもそもさ、俺の世界はキャップ……テンやアイアンマンや君のご両親みたいなでかいスケールで動いてないの。ピーナッツとマギーとパクストンが幸せで、ルイスの会社がうまくいって、ハンクとジャネットが仲良く喧嘩してて――」
たまらず顔を歪めた私を、スコットの腕がそっと抱き寄せた。耳元で彼が笑う気配を感じる。
「――あとは隣に君がいれば、それが俺の世界平和なのさ。どれが欠けてもだめなの」
そうだ。私だって、そう。
母さんがいなくなったとき、私の世界は変わってしまった。それを世界の破滅というのはおおげさかも知れないけれど、でも、私にとってはそれに等しかった。もしもいまスコットを失ったら、私の世界は変わる。きっともう二度と元通りにはならない。
「それにさ、俺って結構諦めが悪いんだ。知ってるだろ?」
照れ隠しのように冗談めかしたその言葉があんまり彼らしかったので、私は泣くよりもさきに笑いだしてしまった。最高だ。こういうひとだから、私は彼を好きになったのだ。
「だいいちあのときだって、君は結局行かせてくれたじゃないか。俺、めちゃくちゃ足を引っ張ったのに」
「でも、帰ってきてくれた」
「キャシーに感謝しないと」
そうね、とちいさく呟いた私の背中を、スコットが元気付けるように叩く。
「そうさ。――だから、今から俺たちの恩人であり偉大なパティシエでもある愛しのピーナッツに、なにかとびっきりのプレゼントでも買いに行かない?」
今度こそ涙なんかどこかへ引っ込んで、なんだかいまにも踊り出したいような気分になった。とっても魅力的な提案だし、なにより、キャシーのあの輝くような笑顔を見たい。今すぐにだ。
「――そのプレゼント、私に選ばせてよね!」
おわり