ラム冬

 神というものを信じてこなかったラムロウは、こんな状況に陥ったとき誰に祈るべきか、あるいは誰を呪うべきか知らなかった。
 いまラムロウの足元でうずくまっている男は、以前はきっと街でいっとう神に愛された男だったはずだ。見目がよくて、体つきも立派で、腕っぷしも強く、心根もよく。日曜日には欠かさず親兄弟と教会に行き、きらきらしいステンドグラスの下でお祈りを捧げたのだろう。
 そんな男がいまでは、この世の中で考えうる限りの罪と堕落をかさね、神をも恐れぬ男の足元に蹲り、顔じゅうを涙と涎で汚しながらぜえぜえとあえいでいる。そんなときでも、男は神に祈るのだろうか。それとも、神を呪っているのだろうか。果たして、それほどの知能も記憶も残ってはいまいが。
「おい」
 靴の先で額を持ち上げてやると、男は濁った青灰色の目だけをぐるりと持ち上げてラムロウを睨んだ。だらしなく緩んだ唇には血が滲んでいる。
「頼むから、これ以上暴れるなよ」
 男の周りには、すっかり形の変わった診察台、のようなものと、かつては医者か科学者か、その中間のような何かだった男たちの死体がいくつも転がっている。
 彼らは男を侮っていた。物言わぬ実験動物、あるいは機械か人形の類いだと――それは、大きな勘違いだ。
「ラム、ロウ……?」
「ああ、よく覚えてたな」
 男の前へしゃがみ、縺れた髪のひと房を摘まむ。指のあいだで擦り合わせると、指先にべっとりと血の赤が移った。思わずため息がもれる。
「せめてもっとシンプルに殺せよ……」
 ラムロウが言うと、男は眉根をよせて首を傾げた。べとべとに湿った顔を拭うこともせず。
「――まあいいか。何があった?」
 ぐるりと室内を見回せばだいたいの想像はつく。この問いは、ほとんど儀式といってもよかった。言葉を使わせ、理性で状況を把握させる。お前は物言う獣なのだと教え、群れへの忠誠を思い出させる。そういった類いの儀式だ。
「絵を……」
 男がようやくまともな言葉を発する。ラムロウは、診察台の脇に落ちているスケッチブックを見た。正確には、めちゃくちゃに引き裂かれ、血だまりに打ち捨てられたスケッチブックの残骸を、だ。
「金髪の男が、俺を描きたいと言った」
 男が苦しげに頭を振る。うわごとのような呻きにロシア語が混ざりだしたので、ラムロウは躾のつもりで彼の頬を強く張った。大人しく打たれた男は静かに項垂れ、ちいさな声で「ごめんなさい」と言った。
「続きは」
 わざと事務的な口振りで問うと、男は上目遣いにラムロウを見た。大きな二つの瞳が、すがるようにラムロウを見る。この顔だったら描いてもいい、とラムロウは思った。そんな絵心があればの話だが。
「……気付いたらあんたがいた」
 だろうと思った。ラムロウは心のなかでそう吐き捨てた。床に転がる死体たちや組織のお偉方がこの男の何にそれほど執着しているのか、ラムロウにはさっぱり分からなかった。兵器にしては不安定すぎるし、観賞用にしてもおなじことだ。獣は檻にいれておくべきだし、手に負えないのならさっさと殺すか逃がすべきだ。
「……なるほどね」
 大きく息を吐き、ラムロウもがっくりと頭を垂らした。そうして襲い掛かる頭痛をやり過ごしたあと、そばの死体が羽織っていた白衣を剥ぎ、比較的汚れのすくない部分で男の顔を拭ってやる。
「自分で歩けるな?」
 そう言うと、男は弾かれたように顔をあげ、勢いよくラムロウへ飛びかかった。首に腕を巻き付け、許しを乞うように顔を擦り付けられる。神に見放され獣に成り下がった男は、この世で一番すがってはいけない男にすがりついた。
「おい、こら。――そっちはしばらくお預けだ」
 ぎゅうぎゅうと押し付けられる男の下半身を撫でながら、ラムロウは笑った。錆び臭い男の体臭が鼻をつき、ざらついた舌の感触が首もとをなぞる。俺は奴等とは違う、とラムロウは思った。
 それはもしかしたら、優越感、というやつだったのかもしれない。