ソーロキ

 ロキがソーの部屋を訪れるのは、そう珍しいことではない――かつては、という枕詞こそつくが。
 寒さで眠れぬ夜には冷えた足を温め合い、星が美しい夜には受け売りの物語を聞かせあった。始めたのはどちらだったか、きっとソーだったと思うのだが、それがいくつの頃の話だったかさえ、もう定かではない。
 それほどまでに長い年月を生き、そのほとんどの間、二人は相応に仲の良い兄弟だった。例えば、弟が兄の髪を梳いてやったり、そのうちの一筋を編んでやったりしても胡乱な目で見られないくらいには。
 そんな頃でさえ、兄弟喧嘩の範疇を越えたやり取りはいくつもあった。刃物を持ち出したり、毒や飛び道具を用いたり、長じてからは魔術を使って兄を陥れたりもした。なぜそんなことを、と母に泣かれもすれば、正々堂々向かってこい、と、当の兄に叱り飛ばされもした。その度ロキはただじっと恨めしげな目でソーを睨み、小さな拳を震わせながら唇を噛んだ。
 なぜそんなことをするのか、それを一番知りたかったのは、他でもない、ロキ自身だったのだから。
「……しかし酷いな、誰に切らせたんだ」
 すっきりと刈り上げられたうなじを、ソーの無骨な手が気恥ずかしげに撫でる。かつてロキが丁寧に香油を馴染ませ、象牙の櫛で梳いてやった黄金色の毛並みは失われ、そこにはただ形良い頭骨の丸みがあるだけだった。
「何やら訳のわからん機械をつけた年寄りだ。ミッドガルドの芝刈り機、だったか? そんなようなやつで……。あやうく、首まで跳ねられそうになった」
 何を馬鹿な、と言いきれないほど、惑星サカールは猥雑で無秩序だった。時間の流れさえ出鱈目な星に、秩序などできようもない。
 そんな星の王が拵えたにしては比較的大人しい意匠の部屋を、ソーは自身の居室に選んだ。きっとそうするだろうとロキも思い、さほど迷わず彼の部屋を探し当て、その扉を叩いた。
 ロキはまだ、自分の部屋を決め兼ねている。
「跳ねられればよかったものを」
「まだ言うか、口の減らない奴め」
 振り向きざまに投げられた酒瓶を咄嗟に受け止めると、ソーが顔中をくしゃりとさせて笑う。「多分、この船にある一等良い酒だ」
「よくヴァルキリーが許したね」
「彼女に飲ませるには惜しい酒だと思って、ずっと隠してた」
 違いない、とロキも笑った。背中は入り口の扉に預けたまま、貴石で飾られた栓を無造作に抜き、ぐいと喉を潤す。甘ったるい、蜜のような味のする酒だった。
「お前、もっと味わって飲め!」
「兄上がそれを言うか? シフが何度夜中に私を呼び出したか、覚えていないとでも?」
 意地悪く過去のしくじりを持ち出してやれば、ソーはぐうっと唸って口をつぐんだ。
 ソーが仲間たちと羽目を外すとき、ロキはいつだって蚊帳の外だった。そのくせ、ソーが酔い潰れて始末が悪くなると皆、ロキはどこだと探しにくる。ああよかったこんなところに、あなたも来ればよかったのに。
 もうそんな言葉を聞くこともないと思えば、慣れない振る舞いの一つや二つしてみたくもなるというものだ。
「――しかし兄上。あなたにしては趣味の良い酒だ」
 半分ほど飲み干した酒瓶を弄びながら、だらしなく床に座りんだソーに習い、ロキもその隣に腰を下ろした。
「だろう? 俺にも分けてくれ」
 簡単に機嫌を直したソーがまた、嬉しくて仕方のないといった顔で笑う。腹の底がじりじりと焼けるように痛んだ。酒精のせいではない。いつの頃からだったろう、ソーを見ると、ロキの腹はいつもそんなふうに痛んだ。
「……ほら。あとは全部、兄上が飲んだらいい」
「いいのか?」
「ああ。そもそも、私はそれほど酒好きでもないし」
「嘘をつけ。確かに量は飲まんが、味だの産地だの、そういうのは俺よりうるさいだろ、お前」
 ぱち、と目を瞬いたロキを、ソーが愉快そうに見る。
「知ってるさ。お前の兄だからな」
 その言葉を二度と聞きたくなかったから、彼を殺そうとしたはずだったのに。ソーはいつだってロキの最も柔らかな部分を平気で掻き回し、あとは知らぬと言わんばかりに去っていく。ロキの心はいつだって散り散りだった。追い縋って泣きわめけばよかったのだ、きっと。そうしなければ、ソーは永遠にロキの心がどれほど彼に傷つけられてきたかを理解しないだろう。かつてのロキは、追い縋るかわりにソーをこの世から消せばいいのだと考えた。そうすれば、きっとこの心も元通りになるのだと頑なに信じていた。しかし、全ては愚かな思い込みだった。
「……ロキ?」
 ソーの澄んだ瞳に、青白い顔をした男が映る。
 何故、これほどまでに痛めつけられてもなお、彼の美しさは一つも損なわれないのだろう。ロキは不思議でたまらない。自分は恐ろしく醜悪で、欺瞞に満ち、迷い、怒り、全てを妬み、愛する者でさえ裏切らずにはおれず、真実は何一つ持たず、ただ一人として信ずるものもなく、弱く、孤独で、こんなにも――苦しいのに。
「あなたは……」
 言いかけて、結局なにもかも飲み込んだ。
 言葉にさえしなければ、この欠けた瞳は当分のあいだ、ロキのためにだけ存在してくれるだろうから。