寄ってきた子牛の鼻面を撫でると、ふすふすと鼻を鳴らしながら頭を擦り付けられた。彼女のことを取り上げたのはバッキー自身だった。医学と同様に獣医学も発展したワカンダでさえ、出産は命懸けで神秘に満ちた行為だ。彼女が産まれた日、バッキーはそれを改めて実感した。
次は猫車にたっぷりと積んだ干し草を母牛へ食べさせてやり、その乳を食む子牛の元気な様子を見ながら横で薪割りに励んだ。両腕ともあれば裂いたほうが早いが、当分は多少不便でもこのままでいい。
それから、ねぐらにしている小屋へ戻って昼寝をした。一時間程度の浅い眠りのあと、昼食がわりに母牛から分けてもらったミルクを飲んでもう一度寝た。今度は深い眠りだった。
目覚めると、隣に座ってこちらを見下ろす気配があった。
「……スティーブ?」
半分眠ったまま、語尾を上げて名前を呼んだ。スティーブは「ああ」とだけ答えた。
「見てないで起こせよ」
「うん。……あんまり間抜けな顔だったから」
もったいなくて、とスティーブが笑う。「昔は寝顔もハンサムだって評判だった」とバッキーが反論すると、「お前の彼女はみんなお世辞が上手かった」とスティーブが肩をすくめた。
「……一ヶ月は帰らないって聞いた」
片腕を支えに危なげなく体を起こし、スティーブの隣に座る。布でくるまれた左肩がスティーブの右肩に触れ、バッキーはほんのすこしだけ惜しいと思った。これでは彼と肩を組むことも、床に置かれた手に触れることもできない。
そんなバッキーの思いを察したのか、スティーブの右腕がバッキーの腰に伸びる。強い力で抱き寄せられ、バッキーはそのままスティーブに寄りかかった。
「くっついてたら暑いだろ」
そう言って笑ったバッキーの頭に、スティーブの頭がこつんとぶつかる。「ずいぶん甘えただな」とバッキーが茶化すと、スティーブは照れも怒りもせず静かに笑った。
「……昔から、ずっとこうしたかった」
スティーブが言う。昔っていつだ、とバッキーが返し、もう覚えてないくらい昔、とスティーブが呟く。昔から、人に甘えるのが下手な男だった。バッキーだけがそれを知っている。
「……馬鹿だな」
バッキーはなんだかとても悲しくなって、スティーブの頭を右手でそっと撫でた。スティーブは、バッキーが知る限りこの世でいちばん強い男だ。でも、誰だって一人では生きていけない。
「なあ、バック。――いろいろなことが落ち着いたら」
スティーブが言う。彼の言ういろいろなことがそう簡単に落ち着くとは思えなくて、バッキーはそっと笑った。これはきっとたとえ話だ。叶うことのないもしもの話。頭のかたいスティーブにしては気のきいた話題だ。
「落ち着いたら?」
「……行ったことのない国を回ったり、住んだことのないところに住んだりしてみたい」
二人きりで、とスティーブは言った。まるで逃避行だな――とバッキーは思った。
「そりゃあいい。寒くないところで頼むよ」
「海が見えるところがいいな」
「オーストラリアとか、ニュージーランドとか」
「今度は羊を飼うのか?」
スティーブが愉快そうに笑い、バッキーもつられて笑った。牧羊犬のかわりにスティーブを走らせたらきっと楽しい。夏は海で泳ぎ、冬は暖炉の前で慣れない編み物をする。そんなバッキーをスティーブが絵に描き、夜は二人並んでベッドに潜る。――なんて甘美な空想だろう。
「幸い、僕らにはたっぷり時間がある」
スティーブの言葉に、バッキーはちいさく頷いた。スティーブが言うと、なんでもそのとおりになるような気がした。なればいいと思った。
「二百歳の誕生日は二人で祝おう」
バッキーが言うと、スティーブが声をあげて笑った。スティーブとなら、百年だって二百年だって一緒にいられる。きっと飽きない。そう思った。
「今度こそ、ちゃんと起きてろよ」
「もちろん。――約束する」
すぐそばにあるスティーブの頬にくちづけ、バッキーは叶うかどうかもわからない約束をした。七十年前の約束がバッキーを人間に戻したように、この約束がスティーブを人間に戻せたらいい。そう思った。
「――僕たちは最期まで一緒だ、バック」
「ああ、もちろん――スティーブ」
噛みしめるようにスティーブが言い、バッキーも同じように返した。お互いの存在を確かめるように名前を呼びあい、体を寄せあった。遠くで子牛の鳴き声が聞こえ、彼女の子供は二人で取り上げよう、とバッキーは決めた。二人を縛る約束は、あればあるだけいい。それはどこか永遠の誓いにも似て、バッキーの心をやわらかく締めつけた。
Wouldn’t It Be Nice
ワカンダ蜜月捏造
