冷凍されている人間は、はたして夢を見るのだろうか。
この問いに答えを出せるのは、おそらく地球上にバッキー・バーンズとスティーブ・ロジャースを置いてほかにいないだろう。
バッキーは思う。答えはノーだ――おそらく。夢なんてものを見た記憶は一切なく、ウィンターソルジャーがもつ虫食いだらけの記憶はいつも唐突にはじまり唐突に終わる。
逃亡中は、分刻みの短く浅い睡眠を定期的にとった。そのあいだに見た夢はどれもが記憶のフラッシュバックに近く、控えめに言っても悪夢だった。
したがってバッキーは、ここワカンダで久方ぶりに穏やかな夢を見た。長く穏やかな眠りと共に。
「――バック、もうとっくに朝だぞ。いや、昼かな」
スティーブの声だな、と頭のすみで思う。ということはつまり、これは夢だ。スティーブはいま中東のどこかに潜伏していると、そう聞いていた。
「……スティーブ? ふふ、どのスティーブだ……?」
目を閉じたまま、ぼんやりとこたえる。ブルックリンのリトルガイか、キャプテン・ロジャースか、現代に蘇ったキャプテン・アメリカか。ちょっと声が低いような気がするから、懐かしのリトルガイではなさそうだ。
夢の中のスティーブは喉のおくでそっと笑い、バッキーの広い額を優しく擦った。
「さて、どれだろうな。当ててみろよ」
そう言われたので、バッキーは目を閉じたまますぐそばにある気配を探った。
「……リトルガイ、じゃねえな。昔のおまえは、こんなに汗くさくなかった」
「悪かったな、汗くさくて」
ごわついた指で鼻をつままれ、バッキーは愉快な気分でくふくふと笑った。やっぱりリトルガイじゃない。あいつの指はもっと細くて柔らかかった。鉛筆を強く握るせいで中指だけが固くごわついていて、そのほかはまるで女の子の指みたいだった。
「キャプテン・ロジャースかな……。いや、まてよ。キャプテン・アメリカかも……」
「どう違うんだ、それ」
「……俺を助けにきたひよっこキャプテンより、ちょっとふてぶてしい感じがする」
バッキーがそう言うと、鼻を摘まんでいた指がほんのすこしだけ強ばった感じがした。無性に顔が見たくなったけれど、かたくなに目は開けなかった。だって、この夢が醒めてしまってはまずい。
「……いまの僕、ふてぶてしい?」
スティーブが言った。その声がなんだかしょぼついて聞こえたので、バッキーはことさら頬を緩めて返した。
「んん、貫禄があるって言えばよかった?」
はじめからそう言えよ、とスティーブが笑ったので、バッキーはほっと胸を撫で下ろした。こういうときのスティーブはちょっと面倒くさい。いつもは誰から何と思われようと平気だって顔をしているくせに、バッキーがそれをからかうと途端にしょぼついた顔をするのだ。
「貫禄たっぷりのキャプテン・アメリカさん、俺の寝床に何の御用かな」
バッキーが言うと、スティーブの温もりがブランケットの内側に潜り込んでくる気配があった。随分リアリティーのある夢だな、とバッキーは思った。痛覚もあるし、匂いも、温度も感じられる。
「……僕もちょっとひと眠りしようかと思って」
「もう昼なのに?」
「たまには構わないさ」
その言葉に、こりゃあやっぱり夢だな、とバッキーは思った。リトルガイもキャプテン・ロジャースも、多分だけれどキャプテン・アメリカもきっとそんなことは言わないはずだ。さっさと起きろよバック、この怠け者め――そんな憎まれ口を何度叩かれたことか。
「さてはおまえ、にせものだな……」
温もりのほうへ寝返りをうちながら、バッキーはむにゃむにゃと言った。スティーブの体がリズミカルに揺れ、笑っているのだな、と思った。このやろう、やっぱりにせものだな、とバッキーは思う。逃亡中に現代のスティーブが写った映像や新聞記事をたくさん見たけれど、それらの中のスティーブはいつも難しそうな顔で腕を組んでばかりだったから。それでもいいか、とバッキーは思った。
「まあいいや。……おかえり、スティーブ」
より密着するようにスティーブの腰を抱き寄せ、バッキーは言った。スティーブの匂いと温もりが、バッキーを再び深い眠りにさそう。つむじの辺りで、スティーブがゆっくりと息を吐く気配を感じた。その息がすこし震えていたような気がしたけれど、バッキーは久方ぶりに訪れた幸福な眠りに抗えなかった。
■
(おまけ)
「ーーさっさと起きろよバック、この怠け者め」
おまえは俺のママか、という文句が喉まで出かかった。それをすんでのところで押し留めたのは、ひとえにここがスティーブの家で、バッキーが独り占めしているベッドがスティーブのものだったからだ。
「起きるよ、起きる。……あと五分したら」
「そう言ってお前が起きたためしがない」
スティーブの硬質な声がささやかなおねだりを突っぱね、バッキーの上からブランケットの温もりが消える。ひい、と悲鳴をあげて縮こまったバッキーを、細い腕が二度三度と揺すぶった。
「ほら、起きろって。もう八時だぞ?」
「……まだ、の間違いじゃないのか? 今日は日曜だろ?」
バッキーはなおもめげずに枕を抱き寄せてぶちぶちとぐずった。あまり信心深いほうではないバッキーは、信徒の鑑のようなスティーブと違い、二日酔いの朝にミサへ行ったりはしない。
「神様だってきっと、こんなに酒臭い男はお断りだ……」
「コロンをたっぷり振っていけよ。ダンスホールに行くときみたいに」
体格のわりに大きなスティーブの手が、猫のように丸まったバッキーの背中を叩く。あまり痛くはない。
「……お祈りよりも、パンチの練習をしたほうがいいんじゃないか」
「うるさい」
「拗ねるなって」
「拗ねてない」
スティーブはそう言うけれど、その声はあきらかにむっとしていた。ここで可愛い親友の機嫌を損ねるのは得策じゃない。
「ごめんって。……あ、そうだ」
「なんだよ?」
「お詫びにさ、お前に眠っているバッキー・バーンズを描く権利をやるよ。三時間描き放題」
「いるかそんなもの」
「ひどいな、相当なレアものだぞ……」
「どこがだよ」
スティーブが笑ったので、バッキーはようやく重い頭を持ち上げて目を開いた。なんとなくだけれど、唐突にスティーブの顔が見たくなったのだ。あんまり上手じゃない笑い顔が、さんさんと差し込む朝日を背負ってバッキーを見下ろしている。
「笑うなよな、最高の提案だと思ったのに……」
「馬鹿いえ。こんなひどい顔、誰が描くかよ」
失礼な、と反論しようとしたバッキーの頬を、スティーブの指が遠慮なくつまんだ。やっぱり痛くはない。でも、バッキーはこの指が好きだった。
「……お前がキスしてくれたら、起きようかな」
「わかった。一生寝てろ」
バッキーの悪ふざけをスティーブが買う。
「そんなこと言って、俺がほんとうに一生起きなかったらどうするんだよ?」
茨のお城の眠り姫みたいに、なんて自分で言ったくせに、それはあんまりな連想だった。ぷんぷんと酒の匂いをさせた無精髭の眠り姫なんて、この世のどんな王子様だって願い下げだろう。
どんなひどい文句が返ってくるかな、と思いながら見上げたスティーブが、不敵に笑ってシーツを掴む。
「叩き起こすさ。――こうやって!」
スティーブが言い終わるよりさきに、バッキーの口から潰れた悲鳴が上がった。床に強か打ち付けた尻を擦りながら、腰に手をあてて得意気にしているスティーブを見る。
「お前っ――!」
「さすがに目が覚めただろ?」
シーツごと冷たい床に引きずり降ろされたバッキーは、ああもちろん、と頷き強烈に痛む頭を抱えた。さっきのパンチは、あれで結構加減をしてくれていたのだと思い知る。
「次はとっておきのパンチを用意しとくよ」
「いいね。楽しみだ」
「言ったな」
そう言って不敵に笑うスティーブの目元が、朝日を弾いてきらきらと光った。スティーブは太陽が似合う。ひどい時は一週間もベッドで寝たきりになることだってあるスティーブだが、それでもバッキーはずっとそう思っていた。陽の光を浴びたスティーブのブロンドは、ほかの誰よりきれいに光る。瞳は今日みたいな晴れた朝の空の色だし、その空の色を反射して光る海の色だ。
「――なあ、スティーブ。頭痛が治まったら出かけようぜ」
「急だな。どこにだよ?」
「景色のいいとこならどこでも」
いいよ、とスティーブが言う。スケッチブックを持てよ、とバッキーも笑いながら言った。
「起きてるバッキー・バーンズ、三時間描き放題」
「いらないったら」
おわり
