二人の部屋にずぶ濡れのちいさなヒーローが転がり込んだのは、ほんの一時間ほど前のことだ。
「シャワーありがとう!」
ぶかぶかのTシャツを着たピーター・パーカーが、人懐っこい笑みをうかべてキッチンに現れた。スパイダースーツ姿のピーターに窓を叩かれたときは危うく腰を抜かしかけたが、どうやら怪我らしい怪我もないようだ。
サムの心配をよそに、まだ濡れたままの頭がのんきな歓声を上げる。
「ワォ! これ、作ったの?」
ありあわせの野菜とトマト缶を煮込んだだけのミネストローネは、サムのレパートリーの中でも比較的食卓にのぼる頻度が高い一品だ。ジェームズはこれを見ると「肉がない」とか「セロリは抜けよ」とかうるさいので、ピーターの反応はたいそう新鮮に感じる。
「昼の残りだよ。オーブンにピザもあるから、好きなだけ食っていいぞ」
文字通りとびあがるほど喜んだピーターに、サムもつられて笑みをこぼした。そこにのっそりと現れたジェームズが、しかめっ面でピーターの首根っこを掴む。
「おい、まだ濡れてるじゃねえか」
「すぐに乾くよ! 先にごはん!」
よほど空腹なのか、ピーターがぶうぶうと駄々をこねた。
「行儀がわるいぞ。ズボンも履いてないじゃねえか」
眉をつり上げたジェームズが、ピーターの尻を湿ったパンツごしにぱちんと叩く。サムとジェームズのズボンでは、どうしてもウエストがあわなかったのだ。きゃあっと悲鳴を上げたピーターがリビングへ逃げ、ジェームズがのそのそと追いかける。それを横目で見たサムは、苦笑しながらセロリのたっぷりはいったミネストローネを器によそった。明日の朝まではもつだろうと思って作ったのだが、この調子ではメニューを考え直さなければならないだろう。
「ピザは自分で持ってこいよ!」
ダイニングから呼びかけると、「はあい」と素直な返事がかえってきた。その後ろから、「一枚10ドルな」とジェームズが言う。
「なにそれ、高くない?」
「迷惑料込みだからな」
自分はなんの手伝いもせずソファでテレビを観ていたくせに、ジェームズはまるで家主のごとき振る舞いだ。
「じゃあ、お前はそろそろ破産する頃だな」
「ローンで頼むよ」
まったく悪びれずに言うジェームズを蹴飛ばしてから、あわただしく腰かけ、いまにもピザにかぶりつこうとするピーターを見る。
「飲み物は……ビールじゃねえよな」
「お気遣いなく!」
言うやいなやで一枚目のピースをぺろりと平らげたピーターをつまみに、飲み損ねていたビールをあける。ジェームズがピーターの隣へ座ったので、サムもすこし悩んでからジェームズの向かいに腰を下ろした。
「――それで、一体誰にやられたんだ?」
サムの問いに、ピーターの肩がぴくりと跳ねる。どうやら、あまり触れられたくない話題のようだ。
「……ノーコメント、じゃだめ?」
「可愛い子ぶってもだめ。迷惑料だからな」
ジェームズがにんまりと笑い、意地の悪い横槍をいれる。サムもこんどは助け船を出さなかった。困り顔のピーターが、大人げない二人を交互に見る。それから観念したようすで大きなため息をつき、しぶしぶ顔で口を開いた。
「……車泥棒を追っかけてたんだけど」
「すごいな、現代じゃ車が水中を走るのか?」
「バッキー、うるさい」
眉を上げておおげさにのけぞったジェームズを、ピーターが恨めしげに睨む。どうやらジェームズは、このちいさなヒーローのことをからかうのがたいそうお気に入りらしい。
「川に落ちたのは帰るとき! ……ちょっと近道しようと思ったんだよ。ウェブが残り少ないの忘れてたんだ」
「そいつは災難だな」
「……そのうえ今日に限ってリュック背負ったままだったから、着替えまで駄目にしちゃってさ。スタークさんたら、春夏仕様だとか言ってヒーターとっちゃうしさ。もう、ほんとついてない」
濡れたリュックを引きずりながらとぼとぼ歩くスパイダーマンを想像したサムは、あやうくこぼれそうになった笑いをなんとか押し殺して頷いた。しかし、幸いにも下が川だったから大事に至らず済んだのであって、若いピーターにとってはさぞいい教訓になったことだろう。
「それで俺んちに避難してきたってわけか」
「そう。カレンに聞いたら、ここが一番近かったから」
「カレン?」
耳慣れない名前を聞き、ジェームズが怪訝そうな顔で首をかしげた。
「僕のスーツについてるAIだよ」
「人工知能だ。知ってるか? じいさん」
サムがそう言ってからかうも、ジェームズは飄々と肩をすくめるだけだ。
「スティーブのやつと違って、俺は頭が柔らかいんだ」
「よく言うぜ。図太いの間違いだろ」
「お褒めに預り光栄だよ」
二人が皮肉の応酬を重ねるあいだも、ピーターはしょぼくれた顔でミネストローネをかき回している。頬杖をついてそれを眺めていたジェームズが、おもむろに蜂蜜色の頭を小突いた。
「――ところで、犯人はちゃんと捕まえたんだろうな?」
「もちろんだよ! ぐるぐるに縛って、警察にもちゃんと通報してきました!」
勢いよく顔を上げたピーターが、にやにやと笑うジェームズに食ってかかる。ぷんすかと頬を膨らませ、いかにも心外だという顔だ。
「何人相手にした?」
「……四人だよ」
「武器は?」
「ナイフと、一人だけ拳銃を持ったやつがいたかな」
とつぜん質問攻めにされたピーターが、顔じゅうに戸惑いをうかべながら応える。意外にも茶化すことなくそれを聞いていたジェームズが、不意になんの含みもない顔で笑った。
「――よくやったじゃねえか。大手柄だ」
そう言って、ピーターのちいさな頭をぐしゃぐしゃと撫でる。ジェームズのおおきな掌に撫でまわされたピーターは、されるがままにぐらぐらと体を揺らした。
「やっ、やめてよ!」
「なんでだよ。せっかく褒めてやってんのに」
「やりかたが乱暴なの!」
「じゃあ、ほっぺたにキスでもしてやろうか?」
「やーめーてーっ!」
ぴいぴいと抗議の声をあげているピーターだが、口で言うほど嫌がっているわけでもなさそうだ。サムはそんな二人をまじまじと眺めた。
「……おまえ、やっぱそういうのが好み?」
「サム、誤解だ」
そう言いながらしっかりとピーターの肩を抱いたジェームズが、妙にかしこまった顔で言う。
「浮気はだめだよバッキー」
ようやく得た反撃の機会を逃すまいと、したり顔のピーターが割って入った。
「……おまえ、いまのはちょっと生意気だぞ」
「バッキー、ひげ、ひげ! 痛いってば!」
無精髭の大男にぎゅうぎゅうと抱きつかれたピーターが甲高い悲鳴を上げる。けれど、その口許は楽しげにほころろんでいた。認めるのは癪だが、ジェームズのこういうところは手放しで称賛に値するとサムは思う。
「あと三日はここにいていいぞ」
「帰るよ! すぐにでも帰る!」
「つれねえなあ」
じゃれあう二人を眺めながら、サムはふとどうしようもなく切ない気分になった。まったく、本当にどうしようもない。
「――おい、冷めちまうまえに食えよ」
なんとか普段どおりの声をだし、温くなりはじめたビールを呷る。目敏いジェームズが、そんなサムを見て困ったように笑った。
「……サムおじさんは優しいなあ」
「……うるせえ、馬鹿」
急に雰囲気を変えた二人を、ピーターがきょとんとした顔で見る。つるりとした頬についた食べこぼしのチーズが妙におかしくて、サムはビールの缶に隠れてそっと笑った。
幸福な食卓
スパイディとサムバキ
