041 リップスティック(クリセバ)

付き合いたてのクリセバ
毎日は土台無理でしたけど、結構頑張れてるんじゃないでしょうか
やればできる子なんです
 あ、切れた。
 そんなことを思いながら、最近できたばかりの恋人の顔を見る。薄い唇が笑みの形をとろうと伸びた拍子に、ぷつんと表面の薄皮が弾けた。大きな灰青色の瞳が痛みに一瞬だけ眇み、丸い指先が患部を確かめようと動く。
「いって……。部屋、乾燥してるのかな」
 恋人――セバスチャンは、縦に短い顔をさらにぎゅっと縮め「参った」と肩を竦めながら控えめに笑った。それからすぐ、手にしていたスマートフォンをインカメラに切り替え、鏡代わりに口元を映す。
「これ、怒られるかな。明日撮影なのに……」
「そう思うんなら、その癖やめろよ」
「え?」
「ほら、また。舐めるなって」
 クリスはつい険のある声が出てしまったことを自覚しながら、乱暴な手つきでセバスチャンの顎先を掴んだ。かさついた薄ピンク色の唇と、そのあいだから覗く白い前歯、と、舐めとった血が滲む舌先。
 ふっと腹の底に熱が灯る。
 付き合うようになって気付いたセバスチャンの悪癖のうち、もっともたちが悪い癖がこれだった。インタビューのあいま、適切な言葉を探しあぐねているとき。重要な台詞に入る前の一瞬。カットがかかる直前の、張りつめたような数秒間。激しいアクションの練習中。ペットボトルの水を飲みほしたあと。
 それから、クリスと二人きりで過ごす夜。
「……クリス?」
 セバスチャンの怪訝そうな声が、クリスを目の前の現実へ戻す。掴んだままの顎にはぽつぽつと無精髭が浮き、女のように細くもなければ滑らかでもない。クリスの視線を捉えて離さない唇は、あちこち皮剥けしてひび割れている。
 それでも煽られた。たまらなく、どうしようもないほどに。
「――リップバームは?」
「は? なんだよ、いきなり……」
「だから、あるの、ないの」
 クリスの詰問じみた問いに、セバスチャンが身じろぐ。ややあって、彼の右手が探るように自身の尻のあたりで動いた。
「あるよ、現場で持たされたんだ。すっかり忘れてたけど……」
「貸して」
「いや、なんでだよ。その前に、その手を放してくれ」
「嫌だ」
「はあ? ……君、忙しすぎて頭がヘンになってないか?」
 怪訝を通り越して苛立ちさえ浮かびはじめたセバスチャンの渋面を睨みすえたまま、その右手から目的の物を奪い取る。掴んだままの顎をやや強引に持ちあげ、繰り出し式のリップバームの蓋を片手であける。
「じっとして」
 そう言い捨て、反論を封じるように手の力を強めた。ほんの少し繰り出したリップバームをちいさく浮いた血の玉に押し当て、ゆっくりと横へ滑らせる。
 体温で溶けだした油分と血液が混じり、まるで口紅でも塗ったように、乾燥でくすんでいた唇に血色が戻った。その奥には、やはり真っ白な前歯がある。
 どんなプレイだよ。
 そう内心で毒づきながら、けれど奇妙に昂った体は言うことを聞かなかった。セバスチャンもクリスの様子に感ずるところがあったのか、身じろぎもせず顔をあげたままクリスを見つめている。
 セバスチャンの言った通り、忙しさのあまり頭がヘンになったのかもしれない。そう思いながら口を開く。
「……君、明日は撮影って言ったよな?」
「うん」
「結構ハードなやつ?」
「いいや。セットだし、アクションもない」
「そっか」
「うん。……シャワー、浴びてこようか?」
 クリスが無言で頷くと、セバスチャンは困ったような顔で「せっかく塗ってもらったのに」と笑った。そこでようやく彼の顎を捉えていた手を放し、すっかり硬くなった自分の分身に目を落とす。
「……わかんないなあ」
 呆れたようにそう言ったセバスチャンの視線も同じところにあった。
「なにが」
「君のスイッチだよ。どこで入るんだか……」
「俺も知りたいよ。……だから、シャワーが終わったら、もっかい」
「セックスするのに?」
「セックスのあとにも」
「セックスのあと、キスとかするじゃん」
「……キスのあとにも」
 クリスは、なんだか半ば意地になりながらもそう強請り続けた。だって、勃ってしまうんだ。しょうがないだろう。そんなクリスを諦めたように見たセバスチャンが、もう一度「わかんないなあ」と呟く。
 こっちの台詞だ、と八つ当たりじみたことを思いながら、手の中のリップバームを弄んだ。クリスも同じものを持っている。これを見るたび、きっと今夜のことを思い出すに違いなかった。
 薄赤く染まった唇と、真っ白な前歯。血の滲んだ舌先。なんの変哲もないリップバーム。それから、このあとの数時間のことを。