自分はわりに我慢強く心も広いほうだという自負があった。たった今、その自負がすっかり打ち砕かれようとしている。サム・ウィルソンはおのれの自負心を打ち砕かんとする悪魔のような男をじっとにらんだ。柔らかく波打つブルネットと、ブルーグレイのおおきな瞳、シルバーに輝く左腕をもつ悪魔。悪魔はたいていうつくしいものと相場が決まっているが、サムの目の前で水のようにウォトカを空ける悪魔もまたうつくしい姿をしていた。
「なんだその目は、睨んだってどかねえぞ」
ソファにふんぞり返ってウォトカを呷りつづける悪魔の名前は、ジェームズ・ブキャナン・”バッキー”・バーンズという。サムは彼を「おい」とか「お前」とか「アンタ」とか呼ぶので、名前はあまり重要ではないのだが――多くの人間は彼をバッキーと呼び、サムもときどきは彼らにならってそう呼んだ。
バッキーがふんぞり返っているソファはサムの持ち物である。置かれている場所は当然サムの家のリビングで、サムは彼を家に招き入れた覚えがない。招かれなければ家に入れないのはヴァンパイアだったか、しかしそうなると怪物のほうがよほどマナーを知っている。
「なんで俺んちにいるんだよ」
「鍵かえたほうがいいぜ。あんなの俺じゃなくても一発だ」
「お前かロマノフぐらいだろうよ、仲間の家にピッキングであがりこむ奴は」
「嫌ならスコットにでも相談したらいい。たぶん無駄だけど」
サムの詰問をのらりくらりと往なしながら、バッキーはまたウォトカを呷った。彼にとって、アルコールの度数はまったく問題にならない。エタノールだって彼を酔わせることはできないだろう。それを哀れだと思うこともあったが、今はただただ腹立たしい。
任務帰りでくたくたに疲れ切ったサムの体は、今すぐにでも休養を欲していた。酒を飲む気にもならないぐらいだ。サムは怒りを表明する手段として肩にひっかけていたレザージャケットをバッキーに向かって叩きつけたが、彼の反射神経を前にしては徒労だった。
「ワオ、いいもん着てるな。ずいぶん馴染んでる」
わざとらしく目を丸くしてバッキーが言い、サムはいっそう苛立ちをつのらせた。うるせえ、と吐き捨て、取り返そうと腕を伸ばす。それをバッキーがひらりとかわす。ますます頭にきて追いかけると、バッキーの体に圧しかかるような格好になった。その隙をつかれ、腕をぐいとひかれる。サムの体は簡単にバランスを失った。悪魔じみた美貌が眼前に迫る。柔らかな感触もあった。唇に、だ。
「――おい、お前」
サムが言いかけたそばから、無粋な言葉をとがめるように下唇を噛まれた。密着した二人ぶんの頭を、サムのジャケットが覆う。レザーのにおいが鼻についたし、バッキーの唾液はウォトカ味だった。けれどサムは悔しいことにひどく興奮し、バッキーはとっくに夜の空気を纏っていた。
■
バッキーの股関節は柔軟性が高く、サムがのしかかっても痛がる素振りは見えない。おおきく広げられた長い両脚を抱え、ぐいと一息に押し入った。見下ろす胸が膨らみ、バッキーがぐっと息をつめる。慣らすように何度か浅く腰をつかうと、あ、あ、と短い嬌声があがった。サムの喉からも低いあえぎがこぼれる。お互い、苦痛が快感にかわりはじめた合図だ。首にあやしく絡みついた腕をとり、縫いとめるようにマットレスへ押し付けた。服従、という単語はあまり使いたくないが、まさしくそんなような格好だった。彼と寝るようになってはじめて、サムは自分のなかにもそうした雄らしい欲求が確かにあるのだと知った。
「ああ……。いい、きもちいい、サム……」
悪魔じみた男は喉を反らせてあえぎ、サムを奥へ奥へと引きずりこもうとする。その白い喉に噛みついてやろうかと思った。サムの不穏な考えを読み取ったのか、バッキーがにんまりと口角をあげる。「もっと乱暴にしたい?」――答えはイエスだ。
「あっ!」
返事のかわりに腰をつかうと、目の前の喉から甲高い悲鳴があがる。それを殺すようにその喉元を噛んだ。汗にぬれた皮膚を舐め、ざらついた顎に唇を這わせ、上気して赤らんだ耳を噛んだ。組敷いた体が腹のしたでうねる。
「いまの、やばい……」
バッキーのかすれた声が、耳元でひどく率直な感想を述べた。同時にきゅうと後ろが収縮し、彼の興奮をダイレクトに伝えてくる。おそらくだが、彼には被虐趣味がある。それが元来のものなのかは知るよしもなく、サムはただ彼が求めるままその体を痛めつけるしかない。
「……クソッ、ちょい緩めろ」
サムが言うと、バッキーはまた悪魔じみた顔で笑った。白状すると、サムはこの顔に弱い。どこまでも彼に翻弄されたくなる。
「んっ……。おいおい、もうすこし頑張ってくれよ、っ」
「うるせえっ、この……」
さっさと吐き出してしまいたい欲求をなんとかやり過ごそうと、目の前の完璧な胸筋に額づいた。頭上から忍び笑いの音が聞こえる。
「……攻守交代か?」
「冗談言うな」
しかめ面で唸ったサムのつむじに、バッキーの甘ったるいキスが降った。挿入しているのはサムのほうなのに、主導権は完全にバッキーが握っている。
このうえさらに主導権のありかを思い知らせようというのか、金属の腕が不意にサムの肩を強く押した。腹筋だけで上体を起こしたバッキーが、噛みつくようなキスでサムの唇を塞ぐ。呆気にとられていると、つぎの瞬間には背中にしわくちゃのシーツの感触を感じていた。
「おい、まじかよ……っ!」
もとより腕力では敵いっこない相手だが、こうも簡単に転がされてはすこしばかりプライドに障る。慌てて体を起こそうとしたが、つながったままの箇所をぎゅうと締め付けられ、サムはあえなくシーツの海に沈んだ。バッキーは腹の上でいたずらに笑い、何度か軽く腰をグラインドさせたあと、おもむろにサムの胸元を指でなぞった。つつ、と鎖骨から首筋までのラインを辿り、手のひらで頬をやさしく撫でられたあと、親指で唇を割り開かれる。反抗する間もない。にわかに雄の色気をましたバッキーに、攻守交代の文字が頭のなかで乱れとんだ。
「はは、突っ込みゃしねえから安心しな」
サムの動揺を的確に突いたバッキーは、そのままおおきく腰を上下させはじめた。サムが慌てて腹筋に力をこめると、愉快そうな笑みとともにキスを落とされる。完全に弄ばれていた。
「この野郎……っ」
意趣返しに突き上げてやると、バッキーの体がなまめかしくのけ反った。天を仰ぎ、感じ入った声でサムの名前を呼ぶ。サム、ああ、きもちいい――おかげでサムのペニスは馬鹿みたいな素直さで質量を増した。
「んっ……あっ!」
圧迫感に呻くバッキーを、サムは容赦なく責め立てた。どうしようもなく興奮していた。より長く楽しもうとか、主導権を握ろうとか、そんな小賢しい考えはすっかり吹き飛んでいた。腰骨のうえにある尻を両手で掴み、本能のまま突き上げる。バッキーのちぐはぐな両手がサムの手を上から握り、もっともっととねだるように指が絡む。サムはそれを振りほどくと腕をのばし、強引にバッキーの後ろ髪を掴んだ。唇がぶつかりあう。舌が絡みあい、唾液が混じりあう。バッキーの体が痙攣しはじめ、絶頂が近いことをうかがわせた。だが、そんなことはどうだっていい。
「あっ、もう、だめだ、サム、ああっ……!」
口付けのあいまにバッキーが限界を訴えたが、それでもサムはやめなかった。鼻同士を擦りあわせ、まだだ、と唸る。バッキーも低く唸り、右手で自身のペニスを扱きはじめた。サムの腹に、つう、と先走りが垂れる。そんなささいな刺激にすらひどく煽られた。
「おい、出すぞ……っ!」
一方的にいい放ち、ひときわ強く突き上げる。バッキーが引き絞ったような悲鳴をあげ、サムの上で短く体をわななかせた。二人同時に果てる。押し寄せる苦しいほどの感情は、いっそ苛立ちにも似ている。焦燥感と、破壊衝動と、それらを押し流すような充足感が綯交ぜになって胸を満たした。
裸の胸をあわせたまま、二人はしばらく荒い呼吸を繰り返した。男女の甘やかなそれとは違い、まるで取っ組み合いでもしたあとのような重い疲労感がある。それと引き換えに、心のどこかが満たされた感覚も確かにあった。簡単には言い表せないし、ただきれいなだけの感情ではない。獣じみていて、限りなく本能に近い。
「すっきりした?」
ピロートークにしては、あまりに情緒のない問いかけだった。上目遣いにサムをうかがったバッキーが、いたずらっぽく瞳を輝かせて笑う。彼の体力は無尽蔵だろうが、サムはとてもじゃないが笑えるような状況ではない。
「……しんどい」
取り繕う余裕もなく、サムは正直にそう言った。多分だが、二人分の体重を支えきったマットレスも同じ感想を述べるだろう。バッキーは喉の奥で笑い、サムの下唇をふにふにと甘噛みした。
「もう終わり?」
「終わりに決まってるだろ」
「オーラルのサービス付きでも?」
「……終わりだ」
「ちょっと揺らいだろ、いま」
くく、とバッキーの喉が鳴る。揺らいだのは事実だが、認めるのは悔しかった。それに、いっときの衝動だけで持ち直せるほど若くもない。サムはゆるゆると息をはきだし、胸の上でいたずらめいた誘惑を繰り返す悪魔の鼻を摘まんだ。バッキーの顔から色気が消え、いつものいけすかないハンサムの顔があらわれる。
燻ぶりつづける熾火を鎮めるように、二人はしばらく触れるだけのキスを繰り返した。あと五分もすれば、憎まれ口を叩きあう友人の顔で眠りにつける。そう信じて。
■
アラームをとめようと腕を伸ばしたサムは、自分とサイドテーブルの間に障害物があることをようやく思い出した。金属のひやりとした感触を二の腕に、人肌のあたたかさを胸元に感じてから、昨夜のあらましを頭の中でなんとなく反芻する。率直に言って、盛りのついた猫のようだった。それも、とんでもなく凶悪な。サムはさしずめ、その牙にかかった哀れな小鳥といったところだろうか。
彼とこういうことになるのは、これが初めてではない。なので幸い、ひどい後悔におそわれるようなことはなかった。だからと言って思うところがないわけではない。二人は永遠の愛を誓った恋人同士でも、人には言えないような爛れた関係でもなく、ただ、ごくごくたまに、なんとなく弾みでこうなってしまう。とても名前を付ける気にはなれないような関係だった。
「……おい、まだはやいだろ」
眠たげな声がサムを非難し、金属でないほうの手がサムの腕を掴む。
「はやくねえよ。とっととシャワー浴びて出てけ」
サムは絡んだままだった脚をほどき、ノーの返事とあわせてバッキーの脛を蹴った。ようやくアラームをとめ、勢いよく上体を起こす。「さむい」と抗議の声があがったが、だからといってその肩に優しくシーツをかけてやるような関係でもない。つまり俺たちはなんなんだろう、とサムはこんなときによく思った。
「なあ、腹減った」
サムのぼんやりとした葛藤をよそに、バッキーは寝ぼけた声で朝飯をねだってくる。性欲と睡眠欲を満たしたあとは、食欲だ。全部を俺で賄う気だな、と思い至り、サムはすこしばかりうんざりとした。
「お前なあ……」
腰のあたりでむずかりつづけるブルネットの頭をかき回し、ひろい額を指ではじく。尾を踏まれた猫のような悲鳴があがった。
「目ぇ覚めたか?」
「……さめた」
ようやくぐずぐずと起き上ったバッキーが、眠気をふりはらうようにううんと伸びあがる。それを横目に見ながらフローリングへ降り、日課に従って寝室のブラインドをすべて上げると、外は清々しいほどの晴天だった。後ろから「まぶしい」と抗議の声があがる。いちいち文句の多い奴だ。
「朝なんだから、まぶしいに決まってる。――ほら、メシ食ってくんだろ。手伝いくらいしろって」
「……お前ってほんと律儀なのな」
ぶっきらぼうに手を差し伸べるサムを、バッキーが苦笑交じりに見た。改まってそう言われると、サムもなんだか照れ臭かった。どれだけ憎まれ口を叩きあおうと、本気で憎いわけでも邪険にしたいわけでもない。メシが食いたいと言われれば、うるせえ出てけと言いながら二人分の朝食を作るし、日課のランニングに出かけるあいだ留守番を任せたりもする。へんにベタベタとしないだけで、信頼はしているのだ。そうでなきゃ、そもそも昨日の夜に叩き出している。
「……うるせぇ」
あれこれと言いかえすかわりに、握り返された手を力いっぱい引いた。裸で転がり出たバッキーに、昨晩脱ぎ捨てられたままの服を次々投げつける。バッキーも、それを諾々として受け止める。おかしなことに、こんどは悪趣味なジョークの一つもなかった。
それから二人は連れ立ってキッチンへ向かい、朝食のメニューについて話し合った。卵をいくつ割るか、トーストを何枚焼くかでくだらない言い争いをし、足を踏みつけあいながらゆで卵の殻をむいたりもした。支度をすませてダイニングテーブルに着くころには二人ともすっかりくたびれてしまい、それからは些細な言い争いもなく、食後のコーヒーはバッキーが率先して淹れた。ソファからそれを眺めていたサムは、なるほどこれが絆される、というやつかとしみじみ思った。
「ミルクだけ?」
「うん。ミルクだけ」
「オーケー」
マグを右手に二つ携え、危なげなく隣に腰掛けたバッキーを見る。そこにはただ油断しきった横顔があった。きゅうに胸が苦しくなり、そんな自分の情動に驚く。マグを受け取る手がへんに強張り、茶色い水面がぐらりと揺れた。
「おいおい、危ねえな。寝ぼけてんのか?」
いつもならすぐにでも食ってかかるような挑発にも反撃できない。バッキーも怪訝そうな顔になって、ただぱちぱちと瞬きを繰り返した。この顔がいけない、と思う。こんなふうに無防備な顔をされると、この歪な関係に名前をつけたくなってしまう。
「……なあ」
なんで俺なの。
不意にそう言ってしまってから、言うんじゃなかった、と後悔した。これまで一度もその言葉を言わなかったからこそ、サムが選ばれていたのだと思う。
「悪い、忘れてくれ」
きっと無理だろうと思いながら、なんとかその一言を絞り出した。砂糖抜きのカフェラテは苦く、無音のリビングはサムに冷たい。せめてテレビでもつけておけばよかったと今さら思った。ワイドショーを賑わすニュースは二人の気を滅入らせるばかりで、朝はなるべくテレビをつけないのが暗黙のルールだった。そんなルールが自然と生まれるほどの時間を二人で過ごした。彼と彼の親友ほどではないにせよ、二人の間にはいくつもの無言の了解がある。
マグを置く些細な物音すら妙にうるさく感じ、サムはいよいよいたたまれずに腰をあげようとした。それを、機械の腕が力強く引き留める。
「そんなの、決まってるだろ」
バッキーが言う。彼は微笑んでいた。「――好きだからだよ」
「お前とのセックスも、お前の作るメシも、お前の家も。……サム、お前も」
ぐい、と腕を引かれ、唇を塞がれる。バッキーの見事な手管を前にして、サムはどこまでも捕食される側だった。その事実を改めて噛みしめる。すべては彼の掌の上なのだ。サムの葛藤も、動揺も、空回りも全部。勝手に振り回され、勝手に悩んで、勝手に振られるつもりでいた。キスの合間に、「やっと聞いてくれたな」とバッキーが笑う。悪魔の誘惑にまんまと引っかかった哀れなサムは、白旗をあげるかわりに悪魔の唇をじっくりと食んだ。
「もしかして、はじめから?」
「……お前さ、もしかして俺をどうしようもないビッチか何かだと思ってた?」
苦笑するバッキーに、気まずさを押し殺して頷く。耳をつねられ、サムはぐうっと唸った。
「だろうと思った」
そんなふうに言われると、なんだか自分がひどく鈍感な男のように思えてくる。いや待てよ、と思い直して、でもなあと再び落ち込んだ。それを悟られないよう、サムは意地になって不機嫌な顔を作った。だいいち、ひとの家にピッキングで上りこんで、一方的に誘惑して、さんざんいいように腰を振って、当然の権利と言わんばかりにメシまで食っていくような男の言うことを信じるのか? そう自分に言い聞かせる。そんな男に惚れたのは誰だ? ともう一人の自分が言う。答えはとっくに出ていた。昨晩この図々しい男を家から蹴りださなかった時点で、すべての答えは出ていたのだ。
「もうピッキングはやめろよ。……鍵、やるから」
彼の告白に応えるかわりに、サムはやっとの思いでそう言った。最大限の譲歩だった。こうしてサムの領域はどんどん浸食されていき、しまいにはきっと彼なしではいられなくなる。そんな予感がした。
「これからはジェームズって呼べよ。――この家の中でだけ、な?」
たちの悪いドラッグのような声が耳元で囁く。それは、じつに悪魔的な提案だった。
