007 Good news and bad news(クリセバ)

自作自演その1
一度関係を解消しているクリセバ
 髭のない顎を撫でたクリスは「久しぶりだな」と落ち着かない様子で言った。セバスチャンも「ああ」と短く答える。庶民的なダイニングバーの喧噪が、いまだけは心底ありがたかった。人目につかない壁際のテーブル席へかけ、しばらく無言のまま互いの指先を睨む。
「……元気だった?」
 クリスが言った。久々に再開した元恋人へかける言葉として、これ以上に無難で当たり障りのない言葉もないだろう。
「まあ、それなりに。君は?」
 セバスチャンの問いに、クリスも「俺も、それなりに」と歯切れ悪く返す。
 共通の知人が開いたパーティで、偶然に顔をあわせた。ひどい別れ方をして、それ以来声も聴いていなければ、出演作を観ることもしていない。一部の親しい友人には、ささいなディナーの誘いにさえ「クリス・エヴァンスだけは呼ぶな」と言い含めている。それだけの別れ方をした。すくなくともセバスチャンはそう思っている。
 しかし、どうやらクリスの考えは違ったらしい。だからこうしてパーティー後のプライベートな時間にセバスチャンを誘い、付き合っていたころ二人でよく落ち合った店を選んだのだろう。傷ついたのも、その傷を引きずっているのもセバスチャンだけなのだ。そう思えば、いっそ笑えてくる。
「――なあ。いったいどういうつもりで俺を誘ったんだ?」
 セバスチャンは薄笑いを浮かべながら言った。いまほど自分が俳優であることを感謝したことはない。ほんとうなら泣きたいくらいの気分だったけれど、そんなことはきっと誰にも分からないだろう。
 クリスは気まずげに俯き「違うんだ」と首を横に振った。
「違う? 何がだ?」
 そうせせら笑うセバスチャンを、クリスの潤んだ瞳が見上げる。まるで、セバスチャンのほうが彼をいじめているみたいだ。付き合っていたころのささいな喧嘩や、別れるときの話し合いの席でもこうだった。彼の豊かな感情表現を前にすると、たとえその諍いのきっかけを作ったのがクリスだったとしても、最後にはセバスチャンのほうが悪者のようになる。
 主人に追いすがる子犬のように潤んだ瞳を揺らめかせていたクリスは、落ち込んだふうを隠す様子もなく、困ったように眉をさげて言った。
「ただ、最近どうしてるかな、って、気になって……」
 その殊勝な言いように、ますます泣きたくなる。言葉通り元恋人を気遣っているのか、それとも、恋人から友人に戻るためには、思い出の店で近況報告をしあいながら酒を飲みかわすという儀式が必要だと思っているのか。そのどちらだとしても、セバスチャンにとっては頭の痛い話だった。
 なぜなら、セバスチャンはまだ彼を愛しているのだから。
「……順調だよ。仕事もあるし、毎日楽しく暮らしている。それなりにね」
 目一杯の強がりだ。今度はセバスチャンのほうが目を伏せ、逃げるように視線を逸らした。そこへ助け船のようにウェイターが現れ、二人分の注文を取っていく。クリスはバーボンを、セバスチャンはラムコークを頼んだ。
 グラスにまとわりつく細かい雫を、ただぼんやりと眺めた。重力に従ってガラスのうえを滑り、ひとつのおおきな塊になっては枝分かれし、最後にはすべて等しくコースターのシミになる。まるで二人の関係のようだ。
「……それは、いいニュースだな」
 クリスがちいさな声で言った。いいニュース。ほんとうにそうだろうか。
「君はどうなんだ。順調そうに見えるけど」
 当てつけのようにそう問い返すと、クリスはまた困ったように顔を歪めた。細く長いため息をつき、ゆるやかに首を振る。
「いいニュースと、悪いニュースがあるかな」
「へえ。いいニュースは?」
 セバスチャンは乾いた唇を湿らせながら、平坦な声で尋ねた。クリスが自嘲するように頬を歪める。
「ようやく自分の気持ちに正直になる決心がついた」
 自分自身への呆れと、あっけらかんとした開き直り。そんなニュアンスのある声だった。クリスの真意が読めない。セバスチャンは及び腰になっている内心を誤魔化すように酒をあおった。その勢いのまま問いを重ねる。
「……じゃあ、悪いニュースは?」
 クリスもまた同じように酒をあおり、苛立ったようにその首筋を強く擦った。落ち着かない手つきで頬を撫でながら、適切な言葉を選びあぐねて何度か唇を開きかける。
 はやく言えよ。何度そう言いかけたか分からない。自然と咎めるような視線を送っていたセバスチャンの瞳を、クリスの真っ直ぐなそれが不意に射抜いた。
「悪いニュースは……まだ君を愛しているって気づいてしまったこと、だ」