夢の中へ

ハワードとトニーとスティーブとバッキーが出てきますが、誰も幸せになってません。
自分的にAOUの整理をつけておきたくて書き始めた話だったと思います。
 スタークがバーンズを預かってから、はやくも三日が経った。
 彼を預かるに当たって、ひと悶着無かった訳がない。ティチャラからの電話は一度、用件を待たずに切った。けれど五度目の電話でどこから聞きつけたのかBARFの名を出され、借りられないのならばせめて理論の提供だけでも、と一国の王に頼み込まれれば、さすがに突っぱねるほうが野暮になってしまう。
 ティチャラの言うとおり、理論の提供だけで済ます手もあった。にも拘らずあえてバーンズ自身の身柄を預かったのは、子供じみた意地か、あるいは意趣返しか。誰への? ――さあ、誰だろうな。
『ボス、バーンズ氏がお目覚めになりました』
 ああ、今行く、と嘘をついた。賢明な一人娘は、それ以上口を挟まなかった。
 バーンズが悪夢から目を覚まして真っ先に見る顔がトニー・スタークでは、まるで悪趣味なサイコホラーだ。自分が殺した夫婦の忘れ形見、それも、関わりの深かった父親のほうに良く似た男。少し時間を置き、自分から出てくるのを待つほうがお互いのためだろう。
 BARFの効果は、想像とは別のところに現れた。
 まず、洗脳を解除する手段としては、当てが外れたと言っていいだろう。バーンズの洗脳に必要な単語は、恐らくそのそれぞれが彼の意思を一瞬で奪い去るほどの恐怖体験と紐付いている。その記憶を書き換えるには、まず本来の記憶が眠る海馬をハッキングし、それを本人の「都合のいいように」出力し直してやる必要があった。しかし、「貨物列車」などはともかくとして、そのほかの単語はひどく抽象的で曖昧だ。簡単に解除されないよう、敢えてそうしたのかもしれない。バーンズ自身も、どの単語がどんな記憶に紐付いているのか、はっきりとは分からないようだった。強引に弄繰り回す手も無いではないが、そんなことをしては、洗脳を解く前に彼を廃人にしてしまいそうである。
 その代り、と言ってはなんだが、ヒドラに関するバーンズの記憶――その中でも、表に出ていないいくつかの新たな情報についての裏が取れたのは、スタークにとっては嬉しい誤算だった。彼の記憶を時系列順に洗い直し、重要なものはアーカイブに収めていく。例の単語と関連のありそうな記憶があれば、その都度多角的なアプローチをかけていく。どうにも手の施しようがなければ、アーカイブごとワカンダに送り返す。それが、現状スタークに思いつく最良のシナリオだった。
 バーンズにとっては、文字通りの生き地獄になるだろうが。
「……すまない、スターク。その、取り乱した」
 バーンズは、思いのほかはやくスタークのいるリビングルームに姿を現した。落ち窪んだ瞼に、彼の疲労と精神的なダメージがありありと表れている。それを見て、いい気味だと溜飲を下げた気になるほど、スタークも残酷ではなかった。ただ、ああなんて可哀想なの、と駆け寄って慰めてやれるほどの聖人君子でもない。
「謝罪はいらん。回復したのなら続きを、と言いたいところだが、今日は休め。私もアンタだけにかかり切りになっていられるほど暇じゃないし、その様じゃまた錯乱したアンタに鎮静剤をぶち込む羽目になる」
 マグにコーヒーを注ぎながら目も合わせず言うと、バーンズはぐっと押し黙った。
 丁度、「貨物列車」に関わる記憶にアクセスした直後のことだ。念のため簡易アーマーを着用していたので事なきを得たが、理性を失った超人兵士と一日に二度もやり合うのは、スタークとしても御免こうむりたいところだった。
 時期尚早だったのだろう。「貨物列車」は恐らく、最も強い恐怖感をバーンズに与える単語だ。あえて前向きに考えるなら、この単語に対するトラウマさえ克服出来れば洗脳に対する抵抗が幾分楽になるだろうとも言える。ただ、踏み込むのが早かった、それだけだ。
「ずっとこの調子じゃ先が思いやられるが……まあいい。駄目なら駄目で陛下に送り返すだけだし、気長にやろうじゃないか」
 力なく項垂れた気配を感じ、スタークはようやくバーンズを見た。ざんばらな前髪をかきあげたバーンズが、重々しく長い溜息を吐き、伺うようにスタークを見る。
「……すまないが、シャワーを貸してくれないか」
「謝罪はいらんと言ったはずだ。受け取る気が無いものを何度寄越されても困る」
 スタークはバーンズと和解する気はないし、バーンズだって流石にそのつもりはないようだった。何かを失ったとき、誰かを恨むことでしか自分を保てないこともある。
「――フライデー。案内しろ」
 イエス、ボス。人間以上に雄弁な声が、微かな躊躇いとともに答えた。
 スモッグに煙るブルックリンの空は、いつだって灰色がかっている。それでも懐かしい、故郷の空だ。
 今、ヨーロッパの冬山で見る空は遠く、抜けるように青い。足元は見渡す限り白く、澄んだ空気は容赦なく肌を刺した。
「バッキー、大丈夫か?」
 ハリのある強い声に名前を呼ばれ、バーンズは振り返った。
「スティーブ? お前こそ……って、寒さも平気なのか、その体」
 精肉店の冷凍庫のような冬山を行軍しているはずが、まるで春のコニーアイランドでピクニックでもしているみたいな顔だ。つまり全く寒さを感じさせない顔で堂々と立つスティーブ・ロジャース――キャプテン・アメリカが、困ったように眉尻を下げた。
「寒いよ、一応。前みたいに死ぬほど辛いってわけじゃないけど」
 バーンズだけは、それが冗談でもなんでもないことを知っている。本当に死にかけたことだって何度もあった。その度にサラ・ロジャースとバーンズ家の人々は神に祈り、痩せっぽっちのスティーブ・ロジャースは奇跡みたいに息を吹き返した。神は本当にいるのだと毎回思った。そして、いまも思っている。きっと神様は、彼の心根の美しさといずれ成し遂げることをすべてご存じだったのだ。だからロジャースは肺炎であっけなく死んだりはしなかったし、これからもきっとそうだ。
「そいつはよかった、俺にもその元気を分けて欲しいね。……ああ、しかし本当に冷えるな」
 バーンズは、潤みかけた目を誤魔化すために俯いて、着ぶくれした手を擦り合わせた。本当は不思議とそこまで寒く感じなかったし、手足の感覚もきちんとある。だいいち、スナイパーが霜焼けなんて恰好がつかない。子供じみた意地から俯いたままでいると、横から伸びてきた大きな手がそっとバーンズの両手を奪った。顔を上げると、空よりも青い瞳がバーンズを映す。
「昔と逆だな。雪が降った日はいつも、お前がこうしてくれた」
 手袋を脱がされた手に、同じく裸の手が触れ合った。体温が高いのか、ロジャースの手はとても暖かい。手のひらのかさつきも几帳面に切られた爪の形も昔と同じなのに、厚みを増した手のひらから伝わる熱と男らしい力強さは知らない男のもので、バーンズをひどく動揺させた。そのうえ、追い打ちをかけるようにハウリング・コマンドーズの仲間たちから冷やかしが飛んでくる。
「おい、よせよ。恥ずかしいだろ……」
「そう言った僕に、お前はなんて言ったっけ?」
 ああ、そうだった。俺はそんなときいつもこう言ったっけ。「――恥ずかしいもんか、ブルックリンいちの色男と手を繋いでるんだぜ?」
「俺が悪かったよ! ――くそっ、お前案外根に持つタイプだよな!」
 バーンズが自棄になって怒鳴ると、ロジャースは声を上げて笑い出した。
「あ、もう一つ思い出した。……『こんな日にお前の瞳を見ると、夏の青空が恋しくなる』だっけ? 色男は言うことが違うなあ」
 モリタの口笛につられ、他の仲間達からも下品な笑い声が上がる。ゲイブとデルニエがフランス語でなにか良からぬことを言いあっては笑い、ダムダムはその太い腕でバーンズの背中を叩いた。その向こうにあるファルスワースの訳知り顔がよけいに腹立たしい。
 抗議の意思をたっぷり込めてロジャースの顔を睨みあげると、思っていたものと違う、不思議に凪いだ目に見つめられて、バーンズはしばし言葉を失った。
「……スティーブ?」
 戸惑いながら、そっと名前を呼ぶ。ふっと破顔したロジャースが、バーンズにしか聞こえないような小さな声で呟いた。
「たったいま、お前の言いたかったことが分かった。――お前の瞳、ブルックリンの青空の色だ」
 ぞっとするほど幸福な記憶だった。そして、第三者が立ち入っていい記憶でもなかった。
 スタークはただ静かにBARFのスイッチを切り、今目の前で上映されたバーンズの記憶をアーカイブから削除した。
「……今日はこれで終わりだ」
 軽い気持ちだった。陰惨な記憶をいくつか見せられたあと、気分転換と称して「貨物列車」以前の記憶を見ないかと提案したのだ。これは、彼らがあの渓谷に向かうほんの少し前の記憶だった。見るべきじゃなかったし、見せるべきじゃなかった。スタークはそう思った。いや、見たくもなかったというのが正しいかもしれない。
「安心しろ。いまのはアーカイブには入れないし、私も見なかったことにする。」
 機械につながれたままのバーンズの頭が、ほんの僅か縦に動いた。喉のあたりが震えているのは、彼が泣いているせいだろか。
 ブルックリンの青空――あのスティーブが、よくそんなことを言ったものだ。そんなふうに思ってから、スタークは猛烈に自分が恥ずかしくなった。理由は分からない。ただ、ひどく背徳的なことをしてしまったような気がしたのだった。
 なるべくバーンズの顔を見ないよう努めながら、手早くヘッドセットを取り外す。一刻もはやくここから立ち去りたい一心だった。
「――私はラボに籠る。アンタは好きにしろ。トレーニングでも飯でもシャワーでも、困ったらフライデーに聞け」
 困ったら、だとさ。なにを偽善めかして、とスタークは思った。持て余した罪悪感のなせる業か、それとも同情したか? あの幸福そうな二人の青年を見て? ――馬鹿馬鹿しい。確かに、バーンズは同情に値する事情を持った男だ。それは承知のうえで、スタークは彼を憎んでいる。彼と、彼を憎まざるを得なくした連中の両方を等しく。
 こんなとき、すべての部屋の扉が自動開閉でよかったと心から思う。そうでなければきっと、苛立ちに任せて何枚かの扉を駄目にする自信があった。すっかり安全基地と化したラボにたどり着いてからもその苛立ちは消えず、スタークをじりじりと苛み続けた。
1944年X月XX日

 昨日は久しぶりの大騒ぎだった。戦果著しいキャプテン・アメリカとハウリング・コマンドーズを囲み、皆興奮を隠しきれないようだった。特に欠員補充で送られてきた若い兵士たちの喜びようときたらない。スティーブは、どうやら既に生ける伝説となりつつあるようだった。
 ありがたいことに、この街の酒場にはまだ飲みきれないほどの酒が残っていた。少なくとも、昨日までは。――それがいけなかった。若い兵士の肩を抱いた男が、コイツはまだ女を知らないそうだと言った。すっかり酔いの回った気のいい男たちは、それをひどく気の毒がった。私もそのうちの一人だ。
 ある男が言った。「誰か、こいつにダンスを教えてやれ」別の男が言った。「俺の出番か?」――バーンズ軍曹だ。おもむろに立ち上がった彼に、誰かがテーブルクロスを投げた。「スカートを忘れるな!」それを聞いた私と、隣に座っていたスティーブは久々に声を上げて笑った。
 テーブルクロスを腰に巻いたバーンズが、まだ少年と呼んで差し支えないような若者の手を取った。「ダーリン、右手は腰に」若者は言われるがまま彼の腰を抱いた。バーンズは大袈裟に腰をくねらせ、そのひどい女っぷりに酒場じゅうが大笑いだった。
 何曲か踊ったところで、誰かがひどい悪ふざけを口にした。「キスだ!」戸惑う若者を他所に、男たちはますます盛り上がった。バーンズは愉快そうに笑い、耳まで赤く染めた若者の顎をそっと持ち上げた。――なんて積極的なレディだろう。
 しかし、若者の純潔は守られた。「バッキー!」……スティーブだ。彼の声はよく響いた。騒がしかった酒場が静まり返り、皆スティーブを見た。顔を赤くした彼は、「悪ふざけが過ぎる」とだけ言うと、そのまま席を立った。私は思わず彼の背中を追った。名指しされたバーンズが、困惑と呆れの混じった声で言うのを遠くに聞いた。「――あいつ、信仰心が強くて」そのフォローはもっともらしく、けれど全てにおいて真実というわけではなかった。

 スティーブは、彼にあてがわれた宿舎の一室にいた。私に気付くと困ったように笑い、弱々しい声で詫びた。「どうした?」私がそう尋ねると、苦悩に満ちた顔をした彼は言った。「わからない」――わからないだと!

 スティーブは、バーンズを愛している。私には分かる。なぜって、その顔だ! そして、あの若者へ向けた燃えるような瞳! ……私も、あのような目でバーンズを見ているのだろうか。

 彼を追いかけるべきじゃなかった。

 スティーブは、ペギー・カーターのことも同様に愛しているはずだ。二つの愛は両立する――スティーブの信仰心が失われないうちは。

 このことに、私は口を挟むべきではない。

1944年X月XX日

 バーンズ軍曹が戦死したとの報せ。
 遺体は無い。

 口を挟むべきだっただろうか。
 ――すべては手遅れだ。
 ハワード・スタークは偉大な発明家ではあったが、良き父親ではなかった。
 しかし、最近はこうも思う。良き父親ではなかったが、そうなろうとする努力までは放棄していなかったのではないか、と。
 P、と締めくくられたメッセージを読みながら、スタークは不意に、父親とこうしたメッセージを送りあったったためしがないことに気付いた。一方的なビデオメッセージを受け取ったのはつい最近のことだ。返事をするまえに、彼は鬼籍に入ってしまった。
 ハワード・スタークが生きていた頃、この世にまだスマートフォンはなかった。けれど紙とペンさえあれば、その日あったことを面白おかしく書置きしておくことぐらいはできる。
 けれどトニー・スタークはP――ピーター・パーカーのような愛嬌のある子どもではなかったし、書置きに登場させられるような友人も持たなかった。返事がこないことが悲しいと書けるほどの素直さも、勿論なかった。
 もし自分がパーカーのような子どもだったなら、父にもこんな夜があったのだろうか。ハイスクールでの些細なイタズラをさも大事件のように送ってよこす無邪気さに目を細めたり、どんな返事を書こうか迷って、結局何も書けずに頭を抱えるような夜が。
 反吐が出るほど無意味で感傷的な仮定だが、そんな夜が存在したとしよう。きっと返事は返って来なかっただろうし、息子はそれに怒りと悲しみを抱いただろう。そして、愚かにも新たな手紙をしたためるのだ。小賢しくも父を困らせるために、子どもらしい残酷な無邪気さをペンに乗せて。
 ――かつてあなたとキャプテン・アメリカの間に、何があったの?
 だから、そんな夜は存在しなくてよかったのだ。これまでも、これからも。
 二人の一日はいつもぎこちなくはじまる。
 バーンズはどうにも愚直な奴で、治療の時間まで部屋に閉じこもったままでいることや、スタークの足音を察知してそれとなく身を隠すようなことを卑怯な振る舞いだと思い込んでいる節があった。そうしてくれても一向に構わないとスタークは思うのだが、本人に言えたためしはない。
 ロジャースもそうだった。どれほど口汚く罵りあって別れたあとでも、彼は忌々しいほど自然な態度でスタークの前に姿を現すのだ。まるで、それが仲直りの合図だとでも言いたげに。その度、気不味さを抱えたままの自分がひどく狭量な男のように思え、それを不服としたスタークがますます意固地になるところまでワンセットだった。
 きっとそれは、バーンズが教えたやり方だったのだろう。なんとなく、そんな気がした。
「……おい、私は一体いつになったらコーヒーが飲めるんだ」
 コーヒーメーカーの前でぼんやりと立ち尽くすバーンズに痺れを切らし、スタークはついに声を上げた。ダスティ・ブルーの瞳に生気が戻る。
「あっ……と、すぐ淹れる」
 すまない、と言いかけたのだろう。言わなかったのは、賢明な判断だ。
 物覚えがいいのか、上の空だった割に危なげのない手つきをしたバーンズがようやくコーヒーを淹れはじめる。それを横目で見張りながらダイニングテーブルにつき、知らず知らずのうちに詰まっていた息をそっと吐き出した。
 なまじ造形の整った男なだけに、黙っているといっそ不気味なほど生き物らしい温かみを感じられなくなる。切りっぱなしの長髪と無精髭のかもす荒んだ生活感がいくらかそれを緩和しているが、自由意思を奪われ、兵器のような扱いを受けていた頃の彼は、恐らくもっと人形じみていたことだろう。彼がアーニム・ゾラの目に留まったのは単なる偶然だったのかもしれないが、あるいはその美しい顔立ちのせいだったのかもしれない、不意にそう思った。どちらにせよ、バーンズにとっては不運以外の何物でもないことに変わりないが。
「いい加減、そのむさくるしい見た目を何とかする気はないのか」
「むさくるしい……か?」
 顎で指されたバーンズは、自分の胸元からつま先までを見渡したあと、不安そうに首を傾げた。
「自覚がないのか? 服装じゃない、その髪と髭だ」
「ああ、これか。別に誰に見られる訳じゃないし……」
「私がいるだろう、私が。――まあ、冗談はこれくらいにして、特にポリシーがあって伸ばしているわけじゃないんだな?」
 それはそうだが、とバーンズが頷く。何で突然そんなことを、というような顔だ。スターク自身、なぜ急にそんなことを言い出してしまってたのか分からないのだから、たとえ聞かれても答えようがなかった。なぜか無性に苛立ったのだ。元から無精な男だったとか、思うところがあって伸ばしていたのならば気にも留めなかったが、過去の映像を見るにつけどうもそうではないらしいと分かった。ならば、バーンズの現状はいわば一種のセルフ・ネグレクト状態に近いのではないか。そう思い至った途端、まして放っておくことが出来なくなった。つまり、馬鹿げたお節介である。
 フライデーを呼び出していくつかの指示をとばすと、ペッパー・ポッツとハッピー・ホーガンの顔が映し出された。お二人とも就業中でいらっしゃいます、ボス。分かりきった言葉が返ってくる。しかし、他に良い人選が思い浮かばないのも事実だ。無論、行きつけのヘアサロンに連れて行くことなど出来るはずもない。
 苛立ちを紛らわすように忙しなく体を揺らしているスタークの背中に向かって、バーンズが諦めたような声で言った。
「……自分でやるから、剃刀とハサミを貸してくれ」
「それであれか。片腕にしちゃ器用なもんだな」
 ローズのさっぱりとした笑い声に、スタークはただ難しそうに眉を顰めた。
 あのあとバーンズはさっさとバスルームに引っこみ、それから一時間もしないうちに散髪と髭剃りを終え、スタークの前に現れた。本人いわく毛先を数センチ整えただけらしかったが、それでも随分とこざっぱりした印象になった。喉のあたりまで伸び放題だった髭もきれいに剃り落されている。数多の記録映像の中にいるバーンズ軍曹よりは若干老け込んでいたものの、十分に若い、まだ青年と呼んでも差し支えないくらいの姿だった。
「危うくハッピーが丸刈りにするところだった」
「そりゃあ命拾いしたな」
 ラボで一番すわり心地のいいイスにゆったりと腰掛けたローズが、歩行補助用のアーマーを脱ぎながら続けた。
「まあつまり、思いのほか上手くやれてる……ってことでいいんだな?」
「どうだか。そもそも、私と上手くやれる人間なんて数えるほどしかいない」
「自覚があったとは」
 久しぶりにテンポのいい会話を交わしながら、スタークは手際よくアーマーの点検に取り掛かった。機械を触っている時だけは、不思議と心が凪ぐ。それにこれは、兵器や戦闘用のガジェットではない。ローズのためだけに開発された、純粋な医療用機械だ。
 不意に雰囲気を変えたローズが、言い難そうに口を開く。
「その……どうだ。お前は大丈夫なのか?」
「どういう意味だ。大丈夫そうに見えないか?」
 おどけた顔ではぐらかすスタークを見て、ローズが苛立たしげに首を振った。
「そうじゃない。だが、バーンズの記憶を見ているんだろう? ……そんなの、想像しただけで気が滅入る」
「まあ、気分のいいものじゃないのは確かだな。でも、誰かがやらなきゃならないことだ」
「それがお前である必要はないだろう。ましてアイツは――」
「親の仇だ。だがヒドラによる犠牲者でもある」
 そういうところだ。そう言ったローズが、長い息を吐いた。
「嫌な予感はしたんだ。自己犠牲精神は立派なもんだが、これは行き過ぎてる。陛下にしたって、あまりに無神経だろう」
「いや、陛下は”貸してくれ”と言ったんだ。無理を押してバーンズを連れてきたのは私だよ」
「それならなお酷い! 一体どうした、何がお前をそこまでさせる?」
 反射的に口を開いたスタークだったが、けれど相応しい言葉は見つけられらなかった。はくはくと唇を戦慄かせたものの、結局何一つとしてそれらしい言葉が出てこない。それもそうだ、何もかもがほとんど衝動的な行動だったのだから。
「……何って、私にも分からんものを説明しようがない」
 気勢を削がれたローズが、白旗をあげるかわりに背もたれへと深く沈み込んだ。呆れやら困惑やら、複雑な色をたたえた黒い瞳がスタークを見る。
「お前……。嫌になるほど頭がいいくせに、たまにとんでもなく突拍子もないことをするよな」
「天才特有の閃きと言ってほしいところだな」
「よく言うよ」
 ローズの苦笑いが、二人の間に張りつめていた緊張をほどく。スタークは手にしていた工具を置いた。おもむろに立ち上がってローズの前へ椅子を引っ張っていき、そこへ腰をおろす。そして、胸の内を整理するように大きく息を吐き出した。
「……君はウルトロンをどう思った、ローディ。ただの人工知能?」
「それは――そうだろう。それ以外に何と表せばいい?」
「まあ、そうだな。だが、偏りがあるとはいえ善悪の判断が出来て、感情もあった。……自分そっくりの父親を憎めるくらいの、豊かな情緒がな」
「よせ、トニー。何が言いたい?」
「私はあれに、アベンジャーズの代わりとして働いてもらうつもりだった。そうすれば少なくとも君らが傷付くことはないし、私も心置きなくアイアンマンを引退できる」
 最近よく考えることがあった。
 自分の兵器に感情があったとしたら、バーンズのように罪の意識で眠れない夜を過ごしたのだろうか。やりたくてやったんじゃない、と泣き叫んだのだろうか。もうこの世にいない誰かに許しを乞いながら自らを傷つけただろうか。それとも、自らを怪物にした誰かを憎んで拳を振り上げたのだろうか。
「あれから色々考えたんだ。……あれは私の罪の形だよ。私達が生み出した沢山の兵器の内の一つさ。兵器に罪はない。ならば、作った人間には? ソコヴィアの人々は誰を憎む?」
「あれを――ウルトロンを作ったのは確かにお前だが、ウィンター・ソルジャーを作ったのはヒドラだ。アメリカでも、ましてお前の父でもない」
「そうかな。――キャプテン・アメリカを作ったのは?」
 ローズは黙って片眉を上げ、小さく肩を竦めた。「アメリカだな。その名の通り」
「キャプテンだって、立派な兵器だ。強力な兵器に対抗するためには、また新たな兵器を作るしかない。少なくとも、戦いが続く以上は」
「じゃあ何だ? 世界中の核兵器を作ったのはアメリカだと、そう言いたいのか?」
「あながち間違いでもないだろう。……認めたくない気持ちもわかるが」
「トニー……。あまり話を広げないでくれ、喧嘩をしに来たんじゃない。俺が聞きたかったのは、お前が」
「私が傷ついてめそめそ泣いてるんじゃないかと心配で見に来てくれたんだろう?」
「そう自虐的になるな。第一、心配しないほうがおかしいだろう? 俺はお前の友人だ、違うか?」
 違わないし、ローズはいつだって正しい。自分が正しいと信じたことを行い、間違っていたと思えば潔く謝る。それはとても簡単なようでいて、実際にはひどく難しいことだ。――スティーブ・ロジャースも、そういうことができる男だった。自分にはそれができなかった。それだけのことだ。
 黙り込んだままあいまいな笑みを浮かべたスタークを、ローズが痛ましげな顔で見つめる。
「お前は頭がいい。……良すぎるんだ。だから多くを抱え過ぎる。たまには自分と、少しの大切な人達のことをもっと優先して考えたっていいだろ」
「君のこと、ハワードそっくりだと思ってたけど」
 ロジャースはそこまで言って、ふと言葉を区切った。飲みかけのコーヒーが入ったマグをテーブルに置き、無機質なアルファベットが並んだ書類を一枚ぞんざいにめくる。隅々まで読めと言ったはずのに、言ったそばからこれだ。はじめは機械のように杓子定規な男だと思っていたけれど、最近では案外こういうところもあるのだと知った。多くの人間が面倒だと思う保険の契約書類などは、彼も等しく面倒に思うらしい。
「父はもっと口煩さかったか?」
「さあ、どうだったかな。……コーヒーくらいは淹れてくれただろうけど」
「すまないな、うちはセルフサービスでね」
 そう言い返してから、ほんの少しだけ「しまった」と思った。柄にもなく緊張しているのかもしれない。でなければ、フルコースくらい準備していたに違いなかった。それだけ特別な男だ。
 キャプテン・アメリカ。父の最高傑作にして、アメリカが誇る唯一無二のヒーロー。彼を前にして、何も思わずにいられるはずがない。それはともにNYを異星の侵略者から守った直後でさえ同じことだ。
「いいさ、別に。特別扱いされたくてここにいるんじゃない」
 ロジャースが困ったように笑いながら言う。
「じゃあ何のためにここにいるんだ?」
「この契約書にサインするためさ。――ああ、頭がおかしくなりそうだ」
 ロジャースはそう言いながらボールペンを放り、金色の髪を乱暴にかき回した。対物、対人、車両、とぶつぶつ言いながら、現代ってのは大変だな、と笑う。
「その通り、現代には現代のルールってものがある。ヒーローにも平等にね」
 スタークも肩を竦めて笑った。その顔を見たロジャースが、可笑しそうに頬を緩める。
「そうしていると、やっぱり似てるかもしれないな」
「……何がだ」
「君、あまり笑わないだろう」
 だから何だ、と言おうとしたけれど、言葉が続かなかった。スタークは、父の笑顔など数えるほどしか見たことがない。けれど、彼は違うのだ。彼の知るハワード・スタークはよく笑う男だった。そういうことなのだ。
「……悪かったな、不愛想で」
「そんなつもりじゃなかったんだ。……ううん、難しいな」
「じゃあどんなつもりだったんだ」
「いや、ほら。君のこと、ずいぶんと誤解していただろう」
 ロジャースは、もう少し彼自身の言葉が持つ力について正しくその威力を把握しておくべきだった。その、はにかむような笑顔がもつ魔力についても、同じだ。
「……今更だけど。トニー、と呼んでも、いいだろうか」
 もとから誰の物にもならない男ならよかった。
 そうであるなら、たとえ永遠に自分のものにならなくともよかった。誰の物にもならず、美しく完璧な姿のままで眠り続けていてくれればよかったのだ。
 けれど、違った。父の考えが正しければ、彼の心はとうの昔にある男が手に入れてしまっていた。その男を憎めればよかった。その男が、同情にも値しない最低の屑ならばよかったのに。
「……眠らないのか?」
 囁くような低い声が闇の中からスタークを呼んだ。顔を上げようとして動かした腕が、空の酒瓶を何本かなぎ倒す。
「なぜ眠らなければならない?」
「あんた、酔ってるな」
「なぜ、酔ってはいけない?」
 ――これではまるで、母の言いつけに背きたがる子供の駄々だ。そう考えると可笑しかった。母を殺した男にこんなことを言うのか。いや、母を殺した男だからこそだ。彼はきっと、どこまでも自分を甘やかしてくれる。その罪悪感に付け込めば、きっと、なんだって。
「なあ、あんたの記憶を見せてくれよ。いっとう幸せなやつだ」
 馬鹿みたいに愉快な調子で言った。いっとう幸せな記憶のあとに、いっとう残忍で罪深い記憶を見てやろうと思った。ウィンター・ソルジャーとしてのそれでなくともいい。人間なら、ひとつやふたつ隠しておきたい秘密の記憶があるものだ。誰にも明かせないような、罪深く愚かな行いの記憶。
「……傷つくのが好きなのか?」
 いつの間にか隣に立っていたバーンズが、手の中のグラスをそっと取り上げた。その手を掴んで引き寄せる。暗闇の中に亡霊のような青白い顔がぼんやりと浮かんだ。
「それは、あんただろう。確認したいんだ、自分が許されるに値しない人間だと。確認して、安心したいんだ」
 おぼつかない両足で立ち上がり、握った手を力ずくで引いた。抵抗は簡単だっただろう。けれどバーンズは抗わなかった。そのままいつもの部屋へ向かい、互いを結ぶ最もなじみ深い椅子へ彼を突き飛ばす。
「あんたの記憶は、ぜんぶ、不愉快だ」
「……ああ」
「見たくもない。仕事じゃなきゃ、とっくに放りだしてる」
「スターク」
「なんで、なんでお前が、あんな」
「……スターク」
「いっそ、記憶なんか戻らなければよかったんだ」
 そのほうが、みんな幸せだった。あんたもだ。
 それはおそらく、最も言うべきではない言葉だった。けれど、バーンズは静かに頷いた。
「俺もそう思うよ。……こんなこと、言わないほうがいいんだろうけど」
 けれど、きっと誰もが心の片隅で思っていたことだった。スティーブ・ロジャース以外の誰もが、きっとそう思っていた。超人的な肉体など手に入れず、記憶や尊厳やありとあらゆる自由を奪われないうちに、あの雪山で死んでしまっていればよかったのだ。どこかの誰かに、知らないうちに殺されていればよかったのだ。
 そうすれば、彼だって美しい思い出のままでいられたのに。
 そうすれば、スティーブ・ロジャースの人生を彩る悲劇的な思い出のままでいられたのに。
「……あんただけだ、スターク。そうやって、俺を痛めつけてくれるのは」
 バーンズが言う。囁くような、低く優しい声で。
「見たければ見るといい。すべて、なんでもだ。あんたにはその権利がある」
 それはきっと、乗ってはならない誘いだった。
 けれど、なによりも甘美な誘いだった。