おめでとうございました(過去形)
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「あの日もとても寒くてね。あと少しで春だっていうのに雪が降ったのよ」
何度も聞いた話に苦笑しながら相槌を打つ。季節外れの雪が降ると、母は決まってこの話をするのだった。バーンズ家に待ち望んだ宝物がやってきた日。彼女がはじめて母親になった、その記念すべき日のことを。
「知ってる。慌てた父さんが玄関で滑って転んで、母さんより先に病院へ担ぎ込まれたんだろ」
「その通り」
片目をつむって笑った母の、その目尻の皺に自分が重ねた年月を想う。暖炉のそばの椅子に腰かけた彼女の膝へブランケットをかけてやりながら、幸せそうに微笑む顔をそっと盗み見た。
「明日も降るかな」
「そうしたら、明日もスティーブに会えるわ」
「そんなの、いつだって会えるだろ」
「あなたはね」
すこし拗ねたようにそう言った母は、さきほどたっぷりのディナーとデザートを振る舞って、そのうえ持ちきれないほどの土産まで持たせて返した息子の親友をことのほか気に入っているのだった。母子二人がかりで泊っていけと散々粘ったけれど、結局彼を寒空の下に送り出すことになってしまった。父がよく「お前は母さん似だ」と言うが、それを実感するのはこういうときだ。スティーブを逃がした時の、あのがっかりとした顔ときたら。
「次はスープじゃなくて、アップルパイを作りすぎたらいい」
「だめよ。アップルパイは日持ちがするじゃない」
「ならサルマーレにしよう」
「それじゃあ、全部あなたが食べちゃうでしょ」
「だって、母さんのサルマーレは世界一美味いんだ。しょうがないだろ」
「まったく。調子のいいことばかり言って」
「――お兄ちゃんはママ似だもの、ね?」
横から口を挟んだ妹を、母が「心外だわ」と睨む。いつもよりすこしだけ豪華に飾り付けられていたテーブルは、もうすっかり綺麗に片付けられていた。
「悪かったな、任せっきりにして」
「いいのよ。今日の主役はお兄ちゃんでしょ?」
今日だけな、と肩をすくめ、最近ずいぶんと大人びたことを言うようになった妹の得意気な笑顔を微笑ましく見る。いつも以上にめかし込んでいるのは、この後にちょっとしたイベントが待っているからだ。
「パパったら、遅いわ」
「すぐ来るさ。……久しぶりだな、家族写真なんて」
そうね、と母が頷く。妹が生まれて以来だった。次はきっとその妹が成人する日に、その次はジェームズか彼女に子供が生まれる日に、バーンズ家の皆で写真を撮る。
「……産まれてきてくれてありがとう、ジェームズ」
母が急に改まった声で言った。ジェームズはなんだか照れくさくて、首の後ろをかきながら不恰好に笑いかえした。
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「えーっ! バッキーったら、もう帰るの?」
「帰るよ、だめ?」
そう問い返すと、彼女はピンク色の頬をぷうと膨らませてバッキーの腕を引いた。
「だって、今日の主役はあなたじゃない」
「そうだっけ」
「そうよ」
飲むための口実を求めて集まった友人達が、口々に「そうだ」と声を上げる。皆気のいい奴らだが、捕まると長いのだった。バッキーは苦笑しながら、ボクシング仲間が差し出したビール瓶を受け取って一息に半分ほど干した。もう一度おおきな歓声が上がる。
「みんなバッキーと飲みたいのよ」
そうでしょ、と笑った彼女に、また「そうだ」とあちこちから声がかかる。
「――わかったよ、クリスティーン。あと一時間だけな」
ため息まじりに降参すると、クリスティーンが「やった!」と小さく跳ねた。そのブロンドのつむじを見下ろしながら、あいつはどうしているだろう、と思う。今夜は冷える。さすがに雪は降らないだろうが、ニューヨークの春はまだ遠い。テーブルにあるチキンの残りを包んでもらって、あとはあいつ――スティーブの部屋で食べるつもりだった。
「その顔。ほんとにしぶしぶって感じ」
クリスティーンがからかうように言った。それから「スティーブがいないものね」と続ける。
「ずるいわ、彼。いっつもバッキーを独り占めだもの」
「そんなことないだろ」
驚いたようにそう返したバッキーを、クリスティーンが不思議そうに見る。
「あるわよ。自覚ないの?」
そう言われて、確かについさっきまでスティーブの顔を思い浮かべていたことに気付いた。予期せぬ相手に図星を突かれ、妙に居心地が悪くなる。クリスティーンはしてやったりとばかりに笑い、続けた。
「……ねえ。私がなんであなたを振ったか、忘れた?」
その言葉に、バッキーの視線が宙をさまよう。
「あー、俺が君のママとのディナーの約束をすっぽかしたから、だろ」
「そう。スティーブが足の骨を折ったからって、あなた血相変えちゃって」
「……思い出した」
ごめん、と頭を下げたバッキーに、クリスティーンがもう一度笑う。
「いいのよ、もう。――あのあとあなたがスティーブにたっぷりお説教されたの、私も知ってるし」
そうだった。すっかり忘れていたけれど、その件で一番顔を赤くして怒ったのはスティーブだ。クリスティーンがかわいそうだと、お前は不誠実だと言って怒鳴ったのはスティーブだった。
「それを聞いて、私スティーブと付き合えばよかったって思ったもの」
「……うん。あいつ、いい奴だろ?」
「少なくとも、あなたよりはね」
クリスティーンが呆れたように言う。それから、二人で顔を見合わせて笑った。さっぱりとした、気のいい女性だ。彼女と結婚するのだと息巻いていたこともあった。振られた時には落ち込んだし、酔っぱらって一晩中泣きもした。それからやっぱり、泣きながらスティーブの部屋を訪ねたのだった。
「……わかった。今夜はとことん付き合おう」
「そうして頂戴。それに、あと少しでデイブが来るのよ」
「デイブ?」
「写真館の。知ってるでしょ?」
みんなで撮りましょ、とクリスティーンが笑う。きっともうしばらく集まれないから。と、悲しそうに。
「戦争なんて、はやく終わればいいのにね」
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「お前の誕生日が来ると、ああ、やっと春だ、って気分になる」
スティーブは短い鉛筆をナイフで器用に削りながら言った。長いまつげが忙しなく瞬く。照れるなら言うなよ、なんて思いながら、窓枠に頬杖をついて笑みを浮かべた。古びたアームチェアが軋んだ音を立てる。
「もうちょっと素直に言えないのか?」
「何をだよ」
ぶすくれる親友に「さあね」とだけ返し、気障っぽく前髪を撫でつけた。
「せっかくの誕生日だ、カッコよく描けよ」
「うるさいな。じっとしてろよ」
「はいはい」
そう返してすぐ、紙のうえを鉛筆が滑る音が部屋に響きだした。バッキーはこの音が好きだ。黙ってこの音を聞いていると、世界中にスティーブとバッキーの二人だけになったような気分になる。
「……なあ、スティーブ」
スティーブはスケッチブックから顔を上げずに「なんだよ」と返した。バッキーは構わずに続ける。
「それ、描けたら俺にくれよな」
「……うまく描けたらな」
だから、素直に言えって。
そう言ってやりたかったけれど、スティーブのへそがこれ以上曲がっては困る。
「大丈夫さ。モデルがいいからな」
「言ってろ」
鼻で笑ったスティーブは、結局一度もバッキーのほうを見ようともしなかった。根負けしたバッキーが窓の外へ視線を移すと、計ったようにスティーブの顔が上がる。いつからだろう。可笑しいような寂しいような、不思議な気分だった。バッキーはそのまま窓の外に広がる見慣れた景色を眺め続け、スティーブはその両目でじっとバッキーを睨み、無言で鉛筆を走らせ続けた。
その沈黙を破ったのは、意外なことにスティーブだった。
「……なあ、バッキー」
半分眠っていたバッキーは、重たい瞼を二度三度と瞬かせてからスティーブのほうを見た。その顔は案の定スケッチブックの影に伏せられている。
「もう描けた?」
「いや……」
物をはっきりと言いすぎるところのあるスティーブが、こうして言い淀むのは珍しいことだ。バッキーはもう一度瞼を瞬かせ、いつの間にか乱れていた前髪を撫で付けながら立ち上がった。
「休憩にするか」
「ああ」
スティーブは珍しく素直に頷き、スケッチブックを隠すように閉じた。見なかったふりをしてキッチンへ向かう。ケトルを火にかけ、二杯分のコーヒーを支度してからスティーブの元へ戻った。
「今夜も冷えるかな」
「今夜どころか、しばらく冷えるよ。……昨日からひどく膝が痛むんだ」
スティーブが吐き捨てるように言う。バッキーが「また落ちたのか」と問うと、スティーブは答えずに小さく肩をすくめた。彼がこういうふうに自分の体を卑下するような物の言いかたをするとき、それは大抵徴兵検査のあとだった。
「……お前の天気予報はよく当たる」
バッキーはそう言ってスティーブの肩を軽く叩いた。それ以外にかけるべき言葉も、してやれることも見つからない。
「たまには外れてほしいよ」
「外れちゃうちの母さんが困る」
「なんで」
「しばらくはスープを作りすぎるはずだ」
そうして、スティーブにこう言えというのだ。「母さんがスープを作りすぎたから、今日の夕飯はうちで食えよ」と。
「……今日はお前の誕生会だろ」
スティーブが眉間に皺を寄せながら言った。
「だからだよ」
「クリスティーンだっけ? 彼女はいいのか?」
「何年前の話だ、それ」
大袈裟におどろいて見せながらキッチンへ向かい、二人分のカフェラテを作ってすぐに戻った。
「これ飲んだら、俺ん家に行こうぜ」
「え?」
「それ持ってさ。あとは俺の部屋で仕上げたらいい」
そう言って、閉じたままのスケッチブックを指差す。ぎくりと肩を強ばらせたスティーブを含み笑いで見やりながら、「逃がさねえぞ」と続けた。
「なんたって、今日は俺の誕生日だからな」
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Bへ
これは僕のアパートメント(以前君がデカい穴を開けてくれたあそこさ)を引き払う時に、知り合いが見つけて取っておいてくれたものだ。元々は君のお母さんが大事に持っていたもので、君の妹さんが亡くなる前、僕の遺品(まあ、生きていたんだけど)と一緒に保管しておいて欲しいって言って、博物館へ寄贈してくれていたんだって。それを僕がまとめて貰い受けて、それからずっと預かっていたんだ。
これを君に贈るべきか、しばらく悩んだよ。でも、きっと君が持っているべきものだ。
この手紙が君の手元に届くころには、きっとそっちへ顔を出せると思う。そしたら――もし君が嫌でなければだけど、このアルバムを見ながらあの頃のことを色々と語り合えたらなと思って。
体に気をつけて。くれぐれも無理はするなよ。
Sより
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「無理するなだって? ……こっちのセリフだ、馬鹿」
ねぐらのあばら家で出迎えるなりそう言うと、スティーブは照れくさそうに瞬きを繰り返しながら「なんのことだよ」とうそぶいた。
「よく言うぜ。無理、してきたんだろ?」
ウィルソンの顔を見りゃ分かる、と意地悪く続けると、スティーブは罰が悪そうに肩をすくめ「お見通しか」と唇をまごつかせた。
「お見通しもクソもあるかよ」
「だって」
そう言って眉を下げたスティーブの頬には、まだ新しい擦り傷の跡が残っている。それを親指の腹でそっと撫でてやると、スティーブの眉がますます下がった。その情けない顔に笑いかけ、囁くように語りかける。
「――なあ、覚えてるか」
「ん?」
「お前が最後に俺の母さんのスープを飲んだ日」
ああ、とスティーブが静かに頷く。そして、好きだった、と噛みしめるように続けた。
「あれのレシピがな、挟まってた」
アルバムの途中に挟まっていた、スケッチブックの切れ端。そこに、きっとあれはスティーブの字だ、スティーブの妙に角ばった大きな字が、慌てた筆致で書きつけていた。その切れ端が挟まっていたページには、描きかけの人物画が丁寧に張り付けられている。眠たげな顔をした男の絵だ。その男は、古びたアームチェアに腰掛け、気障ったらしく頬杖をついている。
「あの味、僕らに再現できるかな」
「無理だな」
バッキーのにべもない返事に顔を見合わせて笑い、それからようやく「お帰り」のハグを交わした。
「ただいま、バック。それから、誕生日おめでとう」
「お帰り、スティーブ。ところで俺たち、一体いくつになったんだ?」
わからない、とスティーブが笑う。だろうな、とバッキーも笑った。
「なあ、また描いてくれよ」
「何を?」
「俺の絵」
今度は正面から。そう言って、スティーブの唇にそっと吸い付く。
「……気付いてたのか」
「薄々な。今さら俺の顔を見るのが恥ずかしいなんて言うなよ」
「それなのに、気付けばお前のことばかり描いてた」
「お陰で俺は暇を潰すのが上手くなった」
とんだシャイボーイだぜ、と笑うバッキーの唇へ、今度はスティーブから噛みついた。はじめは挑むような口付けだったけれど、次第に穏やかでただ心地よいだけのふれあいに変わっていく。
「……クリスティーンは正しかったな」
「なんの話だよ」
「お前が俺よりずっといい男だって話」
怪訝そうに眉をひそめたスティーブの、深く刻まれた眉間の皺を親指でぐいぐいと伸ばす。昔から変わらない、思い詰めたようなしかめっ面。
「ほんと変わらないよな、お前」
苦笑しながらそう言うと、スティーブも同じような顔をしてバッキーを見た。
「お前もな」
「嘘つけ」
「嘘じゃない。……なあ、今日はここに泊まってもいいよな」
その奥ゆかしい問いかけに、バッキーは思わず吹き出してしまった。やっぱり変わらない。スティーブは昔から今までずっと、バッキーのよく知るスティーブのままだ。
「いいに決まってるだろ」
泊まるだけじゃ済まない。バーンズ家のスープを作って二人で食べ、バッキーのアルバムを見ながら一晩中語り明かすのだ。互いのことや家族のこと、友人たちやよく行った馴染みの店。語ることはたくさんある。そして、翌朝にはレシピの隣に真新しい人物画が貼り付けられるのだ。それこそがきっと、何よりの誕生日プレゼントになるはずだ。
