顔見知りの兵士たちはだいたい、スティーブが喧騒を好まないことを知っている。酒に酔えないことも、煙草の煙が苦手なことも。乾杯、それからジョッキ三杯程度までがスティーブに義務付けられた酒量で、あとは時期を見計らって人気のないカウンターの隅、壁際の席をひとつだけ空けたところに座る。誰もそれを咎めることはない。
バッキーはそんなスティーブの行動をすべて把握しているけれど、すぐに彼を追いかけたりはしなかった。スティーブよりすこしだけ長く飲み、食い、騒いだあと、ひとりふたりとテーブルに突っ伏していくのを見届けて、それからスティーブの隣、ヤニで煤けた壁に背中を預けて座る。それから大きな口をいっぱいに広げてあくびをこぼし、スティーブの肩へ絡むように腕を回した。
「なに飲んでんだ?」
「バーボンだよ」
「バーボン? お前が?」
バッキーの目がぱちぱちと瞬く。半分ほど減ったボトルとスティーブを交互に見たあと、茶化すように唇のはしを吊り上げ、肩に回した左手でスティーブの頭を混ぜた。その手がそれほど大きくないと気付いたのは、ここロンドンへ来てからだ。ずっと大きいと思っていた手のひら。広いと思っていた背中。太いと思っていた腕。それがいまでは、スティーブのほうがずっとずっと大きく、広く、太くなってしまった。
「いまならいくらだって飲めるさ。……味はそれほど好きじゃないけど」
「ほらみろ。マスター、ミルクは置いてる?」
「よせって」
調子よくふざけだしたバッキーの肩を軽く小突く。バッキーは大袈裟によろけてみせたあと、ぶたれたところを擦りながらにやけた顔でスティーブを見た。
「さすがキャプテン、いいパンチだ。ゴミ箱の蓋じゃ防げねえな」
「だから、よせってば」
バッキーにかかると、スティーブはいつもこうだ。怒っているか照れているか、あるいは、馬鹿みたいに笑っているか。呆れるような言動も多いけれど、彼はいつだってスティーブの頑なな心を動かそうと努力してくれていた。
「はは、悪い悪い。――マスター、俺にもグラス」
バッキーの手にロックグラスが渡ったところで、スティーブも目の前のボトルとグラスを手に取った。「気が利くな」と笑うバッキーに目配せをし、彼が飲んできただろう酒よりもいくらか上等なそれをそっと注ぐ。どちらからともなくグラスをぶつけ、しばらくのあいだは互いに無言で酒を飲んだ。スティーブよりよほど気の利く店主は、カウンターに置かれたラジオの電源を入れ、そのまますこし離れたところに座る別の客と他愛もない世間話をはじめた。
「……いい店だな」
そう言って微笑んだバッキーの目尻に長い皺が寄る。ロンドンへ来て、互いに歳をとったのだと思い知ることが多くなった。歳の近い同僚たちのなかには、故郷に妻や幼い子供を残してきたものもすくなくない。
「ブルックリンにもあるのかな、こういう店」
「あるさ、きっと。俺たちが知らないだけで」
ブルックリンにいたころ、スティーブはまったくと言っていいほど酒が飲めなかった。バッキーは昔から酒に強かったが、上等なバーボンをボトルで頼めるほど財布に余裕のある生活は送っていなかった。安酒で悪酔いし、前後不覚になったバッキーを介抱してやったこともある。当時はその醜態に腹を立てたものだが、いまとなっては他愛のない笑い話だ。言うまでもなく、スティーブのほうこそ何度もバッキーの手を煩わせてきた。
あの頃はよかった。いまなら素直にそう思える。戦場に立ち、故郷や世界のために戦ういまの生活は確かに充実している。けれど、そのために永遠に失ったものも確かにあった。この体ではバッキーと同じように酒に酔うこともできないし、確実なことは誰にもわからないけれど、結婚して子供をつくることだって難しいかもしれない。この戦争が終わったら、自分はいったいどうなるのだろう。その問いに答えを返せる人間はこの世のどこにもいないのだった。
「なあ、バッキー。ブルックリンに戻ったら……」
そう言いかけて、やめた。
言いかけたくせに、その先になにを続けるべきか、はっきりとした言葉がなにひとつ出てこなかったのだ。自分がこの先どうなってしまうのか、どうありたいのか、スティーブはなにひとつ明確な答えが見つけられずにいた。皆と肩を並べて戦うために、人よりもうんと強靭な体を手に入れた。ならば、そのあとは。戦いがなくなったら、自分は一体どうすべきなのだろうか。
バッキーは、珍しくなんの茶々も入れずにスティーブの言葉を待っていた。けれどその先になにも続かないとわかると、困ったように笑ってスティーブの肩を叩いた。それから、いつものバッキーの顔になって愉快そうに言う。
「……まずは、柔らかいベッドで好きなだけ眠る。俺はこれだな」
確かに、それはひどく魅力的な空想だった。地べたや廃屋の硬い床のうえではなく、住み慣れた自分の部屋のベッドで飽きるまで眠る。伝令に起こされることも、銃声に飛び起きることもない。
スティーブが食いついてきたことがわかると、バッキーはにんまりと口角を上げてのどかな空想を続けた。
「あとは、シケてない煙草とブルックリンラガーがあれば言うことなしだ。昼から映画を観て、そのへんをぶらぶら歩いて、陽が沈んだら家に帰ってまたぐっすり眠る」
いいだろ、と笑い、頬杖をついて胸ポケットの煙草入れを探る。いいことはいい。けれど、あまりにのどかすぎる。
「お前、まさか働かない気じゃないだろうな?」
ようやく調子を取り戻して混ぜ返したスティーブを、バッキーがしてやったりの顔で見た。
「お前さ、昔っから真面目すぎなんだよ。……なるようになる、それでいいのさ」
バッキーは噛みしめるように言うと、ふいに視線をそらして煙草をくわえ、カウンターに置かれたマッチを慣れた手つきで擦った。けれどどうやらマッチがしけっていたようで、何度擦っても火がつく気配はない。思わず吹きだしたスティーブを、ばつの悪そうな顔をしたバッキーが睨んだ。
これは昔からそうなのだが、格好をつけたがるくせに、肝心なところで格好がつかないのがバッキーという男なのだった。というより、じつはあまり性に合わないのだろう。バッキーは、スティーブにとって世界いちの親友で、こうありたいと心から思える理想の男だ。スティーブの世界がどれだけ広がろうと、きっとその序列が変わることはない。なにもしなくたって格好いいのに、わざとらしく格好をつけてみせたり、とんでもない馬鹿をやってみたり、ひどい出来のジョークを言ってみたり。それがすべて彼なりの善意から出た行為だということを、スティーブは知っている。お高くとまったハンサムな優等生でいるより、多少格好が悪くとも、愉快で親しみやすく、親切な男でいることを選ぶ。そういう男なのだ。
「……ありがとう、バッキー」
あらためてしみじみと感謝を伝えると、バッキーは露骨に嫌そうな顔をしてスティーブを見た。どうせこれは照れ隠しだ。自然とにやけだす顔を隠しもせず見つめ続けていると、バッキーは開き直るようにしけったマッチを捨て、グラスに残るバーボンを勢いよく干した。それから、目を座らせてスティーブを睨む。
「それよりお前、彼女とはどうなんだよ」
「えっ?」
急に探られたくないところへ矛先をむけられ、スティーブは焦った。
「彼女っつったら彼女だよ、麗しのペギー・カーター女史だ。決まってるじゃねえか」
逃がすまいと突き付けられたバッキーの指が、ぴしりとスティーブの鼻先をはじく。
「どうって言われても。……彼女とはなにもないよ」
スティーブはなぜだか妙にしどろもどろになって、とっさに言い訳めいたことを口走った。
神に誓ってもいいが、スティーブとペギーのあいだに、純粋な好意をむけあう以上のなにかがあったことはない。それをバッキーにしどろもどろで弁明する必要はまったくと言っていいほどないはずなのだが、それでも言わずにはいられなかった。
「……だいいち、まだはっきり気持ちを打ち明けあったわけでもないんだ。どうもこうもあるかよ」
これも事実だった。いかにスティーブといえど、彼女からむけられる好意に気付かないほど鈍くはない。ペギーだって、スティーブが彼女のことを憎からず思っていることは知っているはずだ。それでも、二人はまだなんら確信めいたやりとりを交わしてはいない。
それを聞いたバッキーは、おおきなため息をついてがっくりと肩を落とした。
「――お前、結婚の約束がなきゃ手も握れないってか?」
「そうは言ってない! ……でも、なんて言えばいいか」
一度は食ってかかったスティーブだったが、その勢いはすぐにしぼんでいった。この手の話でバッキーに敵うわけがない。
あまり辛抱強いほうではないバッキーは、煮え切らないスティーブにすっかり呆れかえり、再びしけったマッチと格闘しはじめていた。三本目を折りかかったところでようやく煙草の先に火がともり、バッキーはようやくありついた煙の味をゆっくりと味わったあと、出来の悪い生徒を見守る教師のような顔でスティーブを見た。
「もしお前がミス・カーターにフラれたら」
縁起でもない言葉にぎょっとして顔をあげると、バッキーはいたずらめいた笑みを浮かべて肩をすくめた。
「ま、そんなのありえないけどな。――賭けてもいい。負けたら裸でロンドンじゅうを走り回ってやる」
「……そんな賭け、絶対にお断りだ」
にわかにいきり立ったスティーブを「まあ聞けよ」と軽くいなし、バッキーは続けた。
「戦争が終わったら、二人は離ればなれだ」
彼らしからぬ真剣な声。どこか遠く、ここではないどこかを見ているような顔をしたバッキーは、ゆっくりとした呼吸で肺へ煙を送りながら言う。
「彼女はイギリス人だろ。そしてお前は”キャプテン・アメリカ”だ」
それは、どうしょうもなく動かしがたい現実だった。
この戦争が連合軍の勝利で終わったとしても、そこで軍人の仕事が終わるわけではない。きっとペギーはイギリス軍人としての使命を果たし続けることを選ぶだろうし、スティーブには”キャプテン・アメリカ”としてふさわしい振る舞いが求められ続けるだろう。スティーブが自らそれを望んだわけでは決してない。スティーブが望んだのは、アメリカの多くの男たちがそうしているように、戦場へ行き、悪しき思想と戦い、世界に平和を取り戻すことだ。派手なコスチュームを着てショーに出ることでも、現場を知らない政治家たちに媚びへつらうことでもない。ましてや、偶像めいた英雄として祭り上げられることでもない。
「お前が望んでそうなったわけじゃないのはわかるよ。……でも、そうなっちまったんだ」
バッキーは、まるで彼自身が困難な選択を迫られているような顔でうつむき、長くなりはじめた灰を丁寧に落とした。
「……俺はさ、お前を責めたいわけじゃないんだ。できる範囲でいいから、すこしでもお前が後悔しなくてすむ選択をしてほしいんだよ」
スティーブの胸が痛いほどの鼓動を打つ。そんなことを言われて、泣かずにいられたのが不思議なくらいだった。
バッキーの言葉は、いつでもスティーブの心を動かし、慰め、勇気づけてくれる。バッキーはあたりまえのようにスティーブの世界を変えてくれるが、それがどれだけ難しく尊いことか、彼自身はちっとも理解していないに違いなかった。それがスティーブにはどうしようもなく嬉しく、そして、ひどく恐ろしかった。
ここは戦場だ。バッキーとだって、いつまた離れ離れになるかも知れない戦況だった。
「僕は……」
彼女を愛している。
そう言おうとした。ペギーの顔を思い浮かべて、彼女と歩む将来を想像しようとした。幼い子供を抱く彼女を、家族の団欒を、あたたかな光であふれる家を想像しようとした。けれど、だめだった。彼女を愛している。それは間違いないのに、彼女と歩む未来をうまく想像できないでいる。そのことが彼女に対する裏切りのように思え、スティーブはひどく動揺した。
スティーブの隣には、いつだってバッキーがいる。それ以外の幸福な未来が、スティーブにはどうしても想像できなかった。
黙り込んだスティーブを見て、バッキーが静かに笑う。スティーブの胸のうちは、きっとひとつも彼に伝わっていないはずだ。けれど、すべてを許すようにバッキーは笑った。
「――まあ、いいさ。死ぬほど考えて出した答えなら、どんな答えだろうと俺は絶対にお前を応援する」
スティーブはただ頷き、バッキーはそんなスティーブの頭を乱暴に混ぜた。これもまた彼なりの照れ隠しに違いなかった。
急に顔をあげたバッキーが、飲もう、とおおきな声で言った。しばらく手を付けていなかったボトルを取り、互いのグラスに溢れるほど注いでいく。スティーブはようやくぎこちない顔で「飲みすぎだ」と笑った。「ああ、飲みすぎだ」とバッキーも笑う。
二度目の乾杯は、ふたりの友情に捧げられた。「――あと、偉大なるキャプテン・アメリカにも!」
「よせって、馬鹿」
あわてて口を塞ごうと身を乗り出したスティーブを、してやったりの顔でバッキーが見る。ふてくされたスティーブは、あてつけのように勢いよくグラスのバーボンを飲み下した。きっと、いくつになろうとこうしてバッキーと馬鹿をやっているに違いなかった。互いの隣にほかの誰がいようと関係ない。きっとそうだ。きっと。
だって、スティーブはそれ以外の未来を思い描けないのだから。
◆
バッキーを失うということは、未来を失うということと同じだった。
スティーブがそれを理解したとき、”スティーブ・ロジャース”は死んだ。確かに一度、死んだのだった。
